体罰の歴史 <2>

 徳川幕府が倒れ明治維新になり、近代日本が始まる。明治時代は、幕藩体制から中央集権国家へ移行であった。
 「体罰の社会史」(新曜社)のなかで、江森一郎(金沢大学名誉教授)は、日本の教育における体罰の歴史を研究してひとつの仮説を立てた。
 それは次のようなことである。
 福沢諭吉の著した「福翁自伝」のなかに、経済論の文献の翻訳に関して、コンペチションという英語をどう翻訳するかというエピソードがある。諭吉は、コンペチションという言葉に「競争」という訳語を創りだした。ところが「競争」という言葉は穏やかではないと、幕府のお偉方からクレームが出た。争いごとに対する当時の幕府の認識であった。
 ところが明治になると、「競争」の価値観は反転する。
 明治5年、学制が発布される。それまでは教育は国家の管理統制になっていなかった。それが国家の意思に統一される。かくして近代的公教育は、士族も庶民も同じ教育を受けるという平等方式になった。しかし、この平等主義と平行して。小学校でも6ヶ月ごとに進級試験をして、優秀なものは「飛び級」できるようにした。競争主義の導入である。
 その後、明治20年、30年代に、小学校の進級試験は廃止になる。激しい競争が子どもや親に傷を残していると判断されたためであった。しかしこの競争主義は、隠然と潜んで残っていく。
 一方、小学生の生徒心得が制定され、それに反する生徒には懲罰が課されるという仕組みが生まれてきた。放校、謹慎処分など、段階化したきまりである。
 ところが、体罰に関しては禁止令が明治12年に明文化された。
 「およそ学校においては、生徒に体罰を加うべからず」
 江森一郎は、
「このような明治の早い時期にすんなりと法制化された原因は何だったのか、教育史研究者にはさまざまな推論がなされている。しかし、伝統思想や過去の実態との関連でなされた研究を筆者は知らない」
と述べて、自己の仮説に迫っている。
 近代教育思想は、体罰肯定を内包している。日本ではなぜ学校体罰の禁止が、近代教育思想の体罰的構造に反して、教育法規に早期に定着したのか。江森の仮説は、江戸時代にその根源を見る。(つづく)