体罰の歴史 <4>

 主として18世紀の思想を媒介にして、西欧の近代社会が生み出した学校は、明治の日本に導入され、やがて世界を覆っていった。桜井哲夫社会学者)は1984年に、「『近代』の意味 ――制度としての学校・工場」(NHKブックス)を著している。
 近代学校制度が日本に始まる明治の初期、近代学校制度の先進国、フランスではすでに深刻な問題があった。それは入試を含む試験のもたらす問題だった。子どもたちは入試を気にして、それ以上の勉強をしない。1899年、フランス議会に呼ばれたパリ大学の法学部長が、議会でこんな答弁をした。
 「学生たちは、かたよった知識ばかり身につけ、歴史的な知識がなくなっている。」
 試験が立身出世のための手段となり、試験勉強のための技術が一般化してゆくにつれ、少年たちの心は大きく病み始める。桜井哲夫は、ルイ・プロールの「教育と自殺」(1907)のなかに掲載されていたいくつかの事例を紹介している。
 1890年、パリで12歳の少年が自殺した。少年は学校から帰ってくると母親に、学校で不当な罰を受けたと述べる。自分を馬鹿にしたから友だちを押し倒したら、25行書き取りをするように罰せられた、と。それを聞いた母親は、息子を叱りつけ、父親にこのことを告げるといって外出した。両親が帰宅すると息子は首をつって自殺していた。父親の話では、子どもは学校でいじめられており、そのことで悲しんでいたという。
 1896年の事例。
 14歳になる息子は、学校で座りっぱなしの生活に嫌気がさし、学校をやめて技術を身につけたいと両親に頼みこんだ。両親はこれを許さず、悲しみに沈んだ子どもは数日後自殺。
 同じ年、試験に失敗した18歳の女の子が飛び降り自殺をする。
 その他、いくつかの事例を紹介したプロールは、親たちを駆り立てる試験を批判して、ソルボンヌの教授のエピソードを次のように書いている。
 <教授は、入学試験の口頭試問において受験生に問うた。17世紀のある戦争の起こった日はいつ? 受験生は「知らない」と答えた。すると教授はこう言った。
 「実は私も知らないのだよ。君の頭の中に、もっと役に立つ知識が入りこむすきまが残されていたことを、お祝いしなくちゃ」
 かくてソルボンヌでは受験生に日付をたずねることはなくなった。そういうことのために事典はあるのだと分かったからだ。>
 プロールによれば、1849年フランスでは、16歳から21歳までの青少年の自殺件数は120人だったが、1898年には477人に増加している。
 このように近代化の中で、増加し始めていた自殺に注目した社会学者がいた。フランス近代社会学創始者、デュルケムである。デュルケムは「自殺論」を著した。
デュルケムはこう述べている。
 <教育が、基本的に一つの社会的機能であるという時から、国家は教育に関与せずにいられないのである。逆に言えば、教育というもののすべては、なんらかの程度、国家の活動に服従せねばならないのである。‥‥教育がわれわれのなかに実現すべき人間は、自然がつくりだした人間ではなく、社会がこうあってほしいと願った人間なのだ。そして、社会は、その内部的な仕組みが要求しているような人間を望んでいるのである。>
 桜井はこのことから、デュルケムは国家主義的な理論を開化させたのだと言う。そして、デュルケムは、公教育こそが、人びとを国家へとみちびく制度であり、なおかつ階級間の争いも最終的には中和してくれるはずのものであると考えた。教育の民主化、機会均等化、選別の平等化などの配慮も、本音は、階級間の争いも弱めてくれるはずだ、というものであった。(つづく)