アイヌ民族の歴史



 日本人は何民族かと聞くと、高校生の返答は、
 「日本人じゃないの?」
 彼はけげんな顔をした。日本人は複数の民族という認識がない。アイヌという少数民族の存在は知ってはいても、その歴史は頭に位置づいていない。少数民族の多い中国の学生なら、自分は何民族かを明確に応える。ベトナムの青年も同じ。
 日本の中高校での近代史の学びはまことにお粗末で、知識が陥没している。疑問を抱き、仮説を立て、諸説・学説を研究し、疑問を出し合って生徒同士で推論し、認識していく、という授業は見られない。
 1910年(明治43)の韓国併合に至るまでにはアプローチがあった。ある日突然そのことが起こるわけではない。明治維新からの近代国家への道は富国強兵の道であり、韓国を植民地にして日本化していく道だった。近代国家への道のなかにはらまれていく思想と政治が韓国を侵略し同化した。その思想と政治は並行して、先住民族アイヌの国と琉球国をも併吞し同化した。
 北海道の歴史はアイヌの歴史だ。アイヌ人の貝沢正がその頃のことを書いている。
 「私の体の中のアイヌの血が私に反省させた。祖父らが文字を学び、新しい文化を吸収しようと、学校を建て、日本人の先生を招いたのは、明治25年であった。その時は、アイヌ文化とアイヌ語アイヌ精神まで失うとは、エカシの誰も予期しなかったと思う。父は、学校で受けた教育で、先生の影響を受けて日本人化した代表的なアイヌとなった。天皇を崇拝し、日本民謡を唄い、晩年には、酒が入ると軍歌『戦友』をうたい自己満足していた。父の先生は、元士族で、封建制丸出しの教育者だった。この老先生から私も6年間学んだ。先生の教えは絶対と信じていた。先生の教えを守り、早くシャモ化していく子どもがほめられて、得意になっていた一人だった。数の上ではアイヌの多い学校から、本村の高等小学校に通学すると、圧倒的にシャモが多く、シャモ的意識が高くなってくる。裏を返すと卑屈感でしかなかった。」
 日本に統合された蝦夷国アイヌ人が、学校の同化教育によってアイヌの文化、精神を消され、日本人化していった様がよくわかる。アイヌはもともと「人間」の意味である。エカシというのはアイヌの長老のこと。シャモは和人、すなわち大和民族の日本人のことである。貝沢正は北海道ウタリ協会の活動をしていた人だった。ウタリは「同胞」の意。
 アイヌの民が叫んでいた。
 「永劫かくやと思わせた千古の大森林、クマザサ茂る山野、ハマナスの花咲き競う砂丘も、原始の衣を脱いで百年。見よ、山は畑地に、野は水田に、神秘の渓流は発電所に化して、鉄路は伸びる。巨船はふえる。大廈高楼は櫛の歯のように並ぶ。こうして二十世紀の文明は、北海道開拓の地図を彩色しつくした。ああ、皇国の隆盛を誰か讃仰せぬ者あろう。長足の進歩! その足跡のいかに雄々しきことよ。
 されど北海の宝庫ひらかれて以来、悲しき歩みをつづけてきた亡びる民族の姿を見たか‥‥。野原がコタン(村)となり、コタンがシャモの村になり、村が町になったとき、そこにいられなくなった。保護という美名に拘束され、自由の天地を失って忠実な奴隷を余儀なくされたアイヌ‥‥。ふがいなきアイヌの姿を見たとき我ながら痛ましき悲劇である。ひいては皇国の恥辱である。
 アイヌ、ああ、なんという冷ややかな言葉であろう。誰がこの概念を与えたであろう。言葉本来の意義は遠くに忘れられて、ただ残る何かの代名詞となっているのはシャモの悪戯であろうか。アイヌ自身には負うべき責めは少しもなかったであろうか。内省せねばならぬことを痛切に感ずるものである。
 私は、小学生時代、同級の誰彼に、さかんに蔑視されて毎日肩身のせまい学生生活をしたという理由は、簡単明瞭『アイヌなるがゆえに』であった。現在でもアイヌは社会的まま子であって、不自然な雰囲気に包まれているのは遺憾である。しかるにアイヌの多くは自覚していないで、ただこの擯斥や差別から逃れようとしていて、逃れ得ないでいる。‥‥
 悲しむべし。アイヌは己が安住の社会をシャモに求めつつ優秀なものから先を争うてシャモ化してしまう。‥‥昔のアイヌは強かった。しかるに目前のアイヌは弱い。現代の社会および学界では、この劣等アイヌを『原始的』だと前提して太古のアイヌを評価しようとしている。同化の過渡期にあるアイヌは、嘲笑侮蔑も忍び、冷酷に外人扱いにされてもシャモを憎めないでいる。恨みとするよりもなお一層シャモへ憧憬しているとは悲痛ではないか。‥‥」 (『近代民衆の記録5 アイヌ』 谷川健一編 新人物往来社
 藤本英夫の「和人侵略とアイヌ解放運動」という論考に次のような文章がある。
 「林子平が1785年(江戸時代)に書いた地図がある。彼がこの地図を書いた意図は、『朝鮮・琉球蝦夷ならびにカラフト・カムチャツカ、ラッコ嶋数国接壌の形勢を見るための小図』と、その余白に記した説明によくあらわれている。当時、ヨーロッパ勢力が押し寄せて、風雲急を告げる極東の谷間で、鎖国日本の位置を探ろうとしたものである。図の中の国名には、『朝鮮国』『琉球国』とあり、さらに北の方に『蝦夷国』とある。注目すべきは蝦夷国とその陸続きの渡島半島部(北海道南端地帯)の松前領とは、線で区切られ、色分けされていることである。」
 徳川幕府は、朝鮮、琉球蝦夷に対して、Nation、国としての礼をとっていたのだ。藤本英夫はさらに次のように続ける。
 「近代の国家観からすれば、そんなアイヌの国を認めるわけにはいかない、と文句が出るのはきまっている。しかし、考えてみると、そんな文句は、文明人を自賛する人間のへりくつである。‥‥アイヌの住んでいた蝦夷地は、何百年、いや最近の考古学の知見によると、何千年にわたってアイヌが住み続けてきた占有地であって、和人の土地でもロシア人の土地でもなかったことは認められなければならない。‥‥したがって、この地にやってきた和人の位置は、アメリカやアフリカに侵略したヨーロッパ人と同じである。ただ、アメリカ・アフリカとの違いは、アイヌに対する和人の同化政策が、幸か不幸か、一見みごとに成功してしまったことだった。」
 徳川幕府が滅んだとき、北海道に新政府による開拓使がおかれた。明治9年(1876)、政府の布達が出される。
 「北海道土人 従来の風習を洗除し、教化をおこし 漸次人たるの道に入れしめ‥‥」
 アイヌ人を日本人に同化させる政策である。アイヌの伝統、女子の入れ墨、男子の耳飾りを禁止し、文字を習わせることが進められた。狩猟民族だったアイヌから、猟につかう毒矢を禁止し、猟銃に替えさせ、シカ猟に税金を課した。やがて日本の各地から移民が押し寄せ、アイヌ人の生活は圧迫され、困窮のどん底に置かれるものも少なくなかった。かくして北海道はアイヌの自由の天地ではなくなっていった。
 日本の文明開化は、植民地主義への開化であり、蝦夷国琉球国、韓国を日本に統合し、満州へ大陸へと領土を広げていった。韓国併合後の同化政策では、創氏改名、すなわち名前を日本式に変えさせ、神社信仰を推し進め、日本の学校制度を敷いて朝鮮語を禁止し日本語を習わせた。日本人だからと、軍隊に召集され、特攻隊員にもなって戦場に散っていった。少数民族アイヌも同じ運命をたどった。
 琉球・沖縄はアジア太平洋戦争の末期、本土防衛の捨て石にされ、戦場と化して破壊された。今も基地の島となったままだ。