体罰の歴史 <1>

 「体罰の社会史」(江森一郎 新曜社)は、江戸時代から現代にいたるまで社会のなかで体罰はどのように行われてきたかを、多くの資料をもとに実によく考察している。(1989年初版、2013年追加新装版)
 昔は野蛮な体罰が盛んに行なわれていただろうと思いがちだが、日本の江戸時代、体罰はもちろんあったけれど、体罰を行なってはならないとする考えも強く、世界の国と比べて体罰は少なかったのではないか、そして明治以降の学校や家庭での体罰を見れば、むしろ増加しているのではないか、とこの著で推論している。
 
 著者・江森一郎は江戸時代の文献を詳しく調べた。その中から数例をここにあげる。
 1769年(明和6)、中田竹翁の「雑口苦口記(ざっこくこうき)」から。
 「子どもに生まれつきの悪いところがあればしばらく許し、よい事があったらそれを適度にほめて教えていけば、子どもは『直なる心』なのだから教えに従い、ほめられるのを喜び、よいところがのび、悪いところが自然となくなるものだ。ゆめゆめ折檻(せっかん)して幼い者の心を傷めてはならない。かえって『ねじけもの』になって、隠れて悪事をするものだ。はじめ愛しすごして悪くしてしまい、後になって折檻するのは、ことごとく親のわがままで、子を育てる本意を知らないからである。」
 儒学者の江村北海(1713〜1788)の説。
 「書を授けるのに、父兄のひざもとへ引きつけて厳格に授け、覚えない時はしかったり、あるいは打ちたたいたりするのは、悪い教え方と言うわけではないが、私はそういうやり方は好まない。その訳は、小児はつまるところ、いまだわきまえがないので、書を読むことは難儀なことと思っても、読まないと父兄に叱られることが恐ろしいために、しかたなく読むということになって、その本心では書籍を厭うようになり、これが学業不成就の根となる。大いによくないことである。」
 1775年に来日したオランダ東インド会社医官・植物学者ツンベルグの見た日本人。
 「彼らは、決して児童をむちうつことなし。‥‥ヨーロッパの文明国民の往々児童に課する如き残酷苛烈なる罰を、かつて見たることなし」。
 幕末のイギリス外交官オールコックの「大君の都」では、
 「(日本人は)決して子どもを撲つ(うつ)ことはない。文化を誇るヨーロッパの国民が哲学者たちの賢明なる注意をよそにして、その子どもたちに盛んに加える、この非人道的にして且つ恥ずべき刑罰法を、私は日本滞在中見たことがなかった」。
 1875年(明治8)、イギリス軍艦長、ブリッジの証言。
 「日本は、男が決してかんしゃくを起こさず、女と子どもは常に穏やかに扱われている国と思われる。ごく普通の労働者たちがたまたま突き当たれば、お辞儀をして許しを乞い、スポーツで動物たちに苦しみを与えることもなく、あらゆる侵入の防御には紙のスクリーン一つで十分な国であるようだ」
 「紙のスクリーン一つ」というのは障子のことである。
 江戸時代には、武士階級と非武士階級に分かれていた。政治、軍事、司法を独占していた武士には武士の育成の仕方があり、農民、町民にはその暮らし方からくる育成の法があった。
 江戸時代は、全国的に藩校、郷校、寺子屋が発達した。武士の子弟が通う藩校には、それなりの厳しさがあり、体罰も存在した。町民の子どもが通った寺子屋ではどうだったか。著者は、この分野の研究で際立つ乙竹岩蔵の大著「日本庶民教育史」を寺子屋研究の金字塔であるという。この著は戦前の、1929年(昭和4)に出版されている。そこにこういう文章がある。
 「寺子屋では、峻厳苛酷なる懲罰が盛んに行なわれて、いたるところ人をして戦慄せしめたという伝説のみがあまねく人口に膾炙しているが、しかし記録文献にはこれを徴すべきものがはなはだ乏しい。またこれについて未だ研究せられたるものもない。余の調査は、三千九十の師匠ならびに寺子屋を合わせ含んだる古老の実験報告によって、傍ら直接間接に関係ある文献図書を参考して、これをまとめたのであるから、事実に基づいたるものであって、この点に関して幸いにその真相を明らかにしえたと信じる」。「庶民教育隆盛期においても、体罰が行なわれ、かつその身体に痛苦を与うる方法の如きも様々であったことは事実であるが、しかし、かかる苛酷なる体罰ははなはだしき頑童に対してのみ、まれに加えられたるもので、決して常に慣用されたものでない。」
 そして乙竹岩蔵は全国を調査した研究のデータを明らかにしている。
 そのなかに、信州諏訪の寺子屋で行なわれた体罰の例が書かれている。
○ 訓戒
○ 御留(おとめ)・留置=居残り
○ 留置し、年取りたるものが詫びて連れ帰る。
○ ちゃわんに湯をいれ、持たせて立たせる。
○ 自分の文庫をかつがせて縁側に立たせる。
○ 「松の木に吊るすぞ」と威嚇する。(実際にはほとんど実行しない)
○ しっぺい棒で打つ。
○ 冬に、寒い北の部屋で一人で手習いをさせる。
○ 赤い頭巾をかぶらせる。(みせしめ)
○ 蔵にとじこめ、火のついた線香をもたせて立たせる。

 寺子屋で師匠から罰を受けた場合、誰かが本人に代わって謝ると許されるとう謝罪法が一般化していた。謝る人は、師匠の妻、寺子屋の近所の老人、子どもの家の近くの人、親、子どもの友だちなどである。間に誰かが入って、自分の代わりに謝ってくれる。そのおかげで許される。この仕組みの妙は、人間への信頼であった。