「日本の農のアジア的様式について  真壁 仁」


 周辺の麦畑では麦刈りは、ほぼ完了したようだ。一反そこそこの麦畑でもキャタピラーで前進する動力刈取機が、人の歩行速度よりも速く一間幅ほどの間隔で麦を刈り取り、たちまち麦粒にしてしまう。今日も、赤色のずんぐりした動力刈取機が活躍していた。米を作らない休耕田では冬から初夏まで麦をつくり、その後はソバを作っている。刈取機は高価なものだから自家では買えない。大規模農家がそれを持ち、委託されて麦刈りをしている。
 ぼくの子どものころは、我が家の小さな麦畑の麦の穂は、鎌で手刈りして、平な木槌でたたいて麦粒を集めた。大麦が麦飯になるまでに、そして小麦が粉になり、パンやウドンやお好み焼きになるまでに、いくつもの過程があり、何人もの家族の手がかかった。


        日本の農のアジア的様式について
                   真壁 仁

   越後平野の百姓も、手で畔(あぜ)をなでていた。
   畔は、落差をささえながら、山々の谷間までのびて棚田をつくっている。
   畔に水がたたえられると、日本の全風景は大きな湖となってしまう。
   そこに禾本科(かほんか)の草が実をむすぶのだ。
   その草のことを古くはニイバリといい、アキマツグサといい、トミクサともいった。
   インドではウリヒ、ギリシャではオルザ、フランスやイタリアではリツといった。
   アジアの南では湿地に自生していた。
   この島には、弥生式の文化にともなって、中国を通ってきたという。
   あるいは黒潮にのって、大スンダ列島を出てきたのでもあろう。
   ぼくらは森林を焼きはらって火耕(かこう)の農をいとなんだあと
   しだいにこの種の北限をすすめてきた。
   ぼくらの手がまだ鉄を鍛える前から、その生産の原形式はきまっていた。
   それはアジアの全域に共通していた。
   そして、現代の手も、そのときのように畔をなでている。
   機械はまだ泥ふかい水の中にはいってこない。
   山の傾斜をはいあがりもしない。
   なぜ? とそれは問われなければならない。
   ぼくらは、
   手がリーバーになっていることについて、
   モーアに代わっていることについて、
   手が精密で器用であることについて、
   精神も手になっていることについて、
   葦原の葦より多い手の数について、
   考えなければならぬ。
   つくられた農機すら、赤く錆びて雨にさらされている。
   それが、《みだりに手を殖やすな》とさけんでいるのを知らなければならぬ。


 詩中の、「モーア」は牧草刈取機で、「リーバー」はさらに進んだ刈り取り集禾機。
 ぼくは中国の雲南省の奥地を旅したとき、農家を訪れたことがある。今も牛を飼い、牛が田を耕していた。農家の匂いは、昔の祖父母の家の匂いと同じだった。唐箕は日本と全く同じ。稲が日本に伝わっていったルートの源流を見る思いがした。
 日本の山間部には棚田が多い。段々畑、山の傾斜に合わせて作られた小さな細長い田んぼ、そこで米を作ると機械は使えない。すべて人間の手でつくらねばならない。百枚、千枚の田んぼすべてに、水が入るように、水の道が手でつくられ、水漏れがないように頭脳と手が微妙に動き、植える苗は手で担ぎ上げ、夏の草取りは手で水の中をかき混ぜねばならなかった。秋の収穫、手鎌で刈り取り、はぜに干し、千羽こぎで脱穀した。厳しい労働だ。それを軽減するために、どうすればいいか。