すぐ近くから小さな黒点が、ほぼ真上の方向で空に上がっていく。細かくはばたきながら、黒点は空の上へ上へとのぼっていって、とうとう芥子粒ほどになり、空の一点でホバリングしながら聞こえるか聞こえないかほどの声でさえずり、いきなり黒点はすーっと急降下を始め、とたんに黒点は空の中に溶け込んで消えた。ヒバリだ。
今朝、初めてみたヒバリ、近年ほとんど見ることも声を聞くこともなかったヒバリ。ヒバリは麦畑に巣を作り、麦畑から空に舞い上がる。舞い上がるときのさえずりと、空中の一点で移動せずにホバリングしているときのさえずり、そして急降下していくときのさえずり、この三段階はメロディが変化する。
子どものころ、ヒバリは2、3枚の麦畑に一つがいはいた。春から初夏の麦畑はヒバリの歌の合唱だった。叔母が農家にとつぎ、小学生だったぼくは遊びに行った。義理の叔父と叔母は、重箱におにぎりを入れ、レンゲや菜の花の咲く畑へぼくを案内した。
「ヒバリの巣をとってはいかんよ」
巣を取れば、頭が悪くなって勉強が出来なくなるよ、叔父がそう言った。
そんなにもヒバリは大切にされているんだなあと小学生なりに感じるものがあった。
ヒバリは雲雀と書いた。なるほど雲まで上がって降りてくる。中学生のころだったか、その詩に出会ったときはいつだったかよく覚えていないが、その詩はよくおぼえている。
揚げ雲雀
雲雀の井戸は天にある‥‥ あれあれ
あんなに雲雀はいそいそと 水を汲みに舞ひ上る
はるかに澄んだ青空の あちらこちらに
おきき 井戸のくるるがなってゐる
三好達治の詩だった。揚げ雲雀(あげひばり)という言葉がいい。「井戸のくるる」というのは、水をくむ「つるべ」のロープをかける回転車の心棒のこと。雲雀の声を、水をくむときになるキュルキュルという「くるる」の音にたとえている。
それから、上田敏の訳詩に出会った。「春の朝」というその詩は、ロバアト・ブラウニングの詩。
春の朝
時は春、
日は朝(あした)
朝は七時、
片岡に露みちて、
揚げ雲雀なのりいで、
神、そらに知ろしめす。
すべて世は事も無し。
上田敏の名訳で有名になった詩。
のどかな春の空。雲雀が空へさえずりながら上っていく。神の治めておられる空へ。平和な空へ。
その揚げ雲雀、今では激減した。今朝見たのはその一羽のみ、一時間ほど朝の野を歩いて、二度と雲雀に会わなかった。