岩波茂雄の子ども時代


 ついでに岩波茂雄の子ども時代のことを記しておこう。
 先日、地区の小学校の保護者会があった。例年夏休み前に行なわれるPTA地区懇談会である。夏休みの過ごし方や、行事、子どものことで気になることなどを出し合う場だが、参加者は全員お母さんで、父親の参加は一人もない。いったんこういう風潮になると、それが継続していき、保護者会には母親が出るものという固定化が起こるのだろう。
 この日の地区懇談会には小学校から教師一人の参加があった。PTA以外では民生児童委員と子ども会育成会役員が出席した。
 会の最後にお母さん方全員に、子どものことを発言してもらった。
そのなかで、学校からの下校中の、いわゆる道草のことを言った人が数人いた。いたずらをしたり、遊んだりしながら帰ってくる子どもたちは、水遊びしたり、泥んこになったり、「私の子は傘を持って行ったら、壊してくる、一年間で10本も壊す」と、かなりのワンパクぶりを話した人がいた。「危険なことをしたり悪いことをしていたら、見つけ次第叱ってください」という人も何人かいた。
 ぼくはこの話を聞いて、「子どもはそういうもので、イタズラは宝物、安心しました」と発言した。そして岩波茂雄のことを思い出していた。
 安倍能成が書いている岩波の子ども時代、それはそうとうなイタズラ者だった。
 茂雄は家の裏を流れる宮川でよく泳いだ。今も諏訪大社の祭りでは、何本もの御柱が各地区ごとにたくさんの人に引かれてこの宮川にざんぶと突っ込み川を渡る。実に勇壮な祭りである。茂雄もそういう行事に参加して血を沸き立たせていったのかもしれない。
 茂雄は川で泳ぐのがエスカレートして、次は諏訪湖で泳ぎ始め、小舟を借りて、友だちと湖を横断する冒険に挑戦した。二人の子どもはまだ艪(ろ)をこぐ方法も知らない。沖に出たら風がひどくなった。舟は激しく揺れ動き、今にも転覆しそうになった。それでも二人は必死にがんばって諏訪湖の往復をやりとげ、岸に着いたときは、手はまめだらけ、腹はすいてものも言えなかった。
 小学時代の茂雄は、いたずらもので、それもかなりの計画的ないたずらだったから、「茂雄さのこすさ」と言われた。弁当を持って家を出て、学校へ行かずに下校の時間を見計らって帰ってくることも多かった。それがもとで出席不足になり、学年末の通信簿で発覚する。驚いた母親が学校へ駆けつけ、先生にかけあって及第にしてもらったということもあった。
 小学校を卒業すると茂雄は高等小学校へ進んだが、相変わらずやんちゃはやまず、一日おきぐらいに立たされていた。みんなで学校を抜け出して、裏山に登り、鐘が鳴ってもときの声をあげて下りて行かない。
そういう茂雄が、一人の教師の指導を受けて、校友会をつくり、会長になった。それから茂雄は日本と外国のことに関心を持ち始める。西郷隆盛吉田松陰の話を先生から聞き、時代の波を浮けて、いかに生きるべきかを考えて行動するようになっていく。校友会の活動では、夜にランプを灯して演説会を開いたこともあった。
 高等小学校4年のとき、母親が30坪の畑を彼に与え、野菜を自分の力で作れと申し渡した。茂雄は、瓜やナスをつくり、土曜、日曜日にそれを竹のかごに入れて天秤棒でかつぎ、上諏訪町で売り歩いた。売上金は、村の役場にもっていって、慈善事業に寄付した。
 伝記はこのようなヤンチャ、ゴタと、行動する子どもの茂雄を紹介している。
 やがて茂雄の中学校時代がやってくる。後の岩波茂雄の基礎はかくしてつくられていった。