「水俣」の死者とともに、石牟礼道子

 石牟礼道子昭和2年(1927年)生まれだから、現在85歳になる。石牟礼道子が「苦海浄土」の一部を発表したのは昭和35年(1960)、完成本が出版されたのは1970年だった。石牟礼道子は16歳から20歳まで小学校の代用教員をしていたことがある。水俣病が発生してからの一生は、ただただ「水俣」と共にあった。
 石牟礼道子の文章には、言魂(ことだま)がこもっている。語りにも、言霊がこもっている。話し言葉と書き言葉が一体であり、文学は水俣と一体であった。水俣の人びとの生と死は、石牟礼の生と死であった。
 「苦海浄土」は嗚咽なしでは読めなかった。

 「仙助老人の死から二十日ほどした二月七日、ぬかるみの出月部落の国道三号線の上で、私はまたひとつの葬列に出会うのである。
 三十年四月、原因不明のまま発狂状態になり、熊本市郊外の小川再生院に入院させられ、十年間家族のもとに帰ることなく死亡した荒木辰夫の葬列であった。彼の発狂は水俣病と認定されたが、面会に行く妻女がながい間識別できずに後ずさりし、夫の留守を守って必死に働いている妻女をかなしませた。
 国道三号線には、急激に増えた大型トラックの列がうなりをあげ、わびしいこの葬列を押しひしゃぐように通り抜け、人びとの簡素な喪服のすそや胸元や、位牌にも、捧げられた一膳の供物にも、つぎつぎに容赦なく泥はねをかけてゆく。
 私のこの地方では、一昔前までは、葬列というものは、雨であろうと雪であろうと、笛を吹き、かねを鳴らし、キンランや五色の旗を吹き流し、いや旗一本立たぬつつましやかな葬列といえども、道のど真ん中を粛々と行進し、馬車引きは馬を止め、自動車などというものは後にすさり、葬列をつくる人びとは喪服を晴着にかえ、涙のうちにも一種の晴れがましささえ匂わせて、道のべの見物衆を圧して通ったものであった。死者たちの大半は、多かれ少なかれ、生前不幸ならざるはなかったが、ひとたび死者になり替われば、粛然たる親愛と敬意をもって葬送の礼をおくられたのである。
 いま昭和四十年二月七日、日本国熊本県水俣市出月の、漁夫にして人夫であった水俣病四十人目の死者、荒木辰夫の葬列は、うなりをたてて連なるトラックに道をゆずり、ぬかるみの泥をかけられ、道幅八メートルの国道三号線のはしっこを、田んぼの中に落ちこぼれんばかりによろけながら、のろのろと、ひっそり、海の方にむけて掘られてある墓地にむけて歩いていったのだ。
‥‥
 僻村といえども、われわれの風土や、そこに生きる生命の根源に対して加えられた、そしてなお加えられつつある近代産業の所業はどのような人格としてとらえられねばならないか。独占資本のあくなき搾取のひとつの形態といえば、こと足りてしまうか知れぬが、私の故郷にいまだに立ち迷っている死霊や生霊の言葉を階級の原語と心得ている私は、私のアニミズムとプレアニミズムを調合して、近代への呪術師とならねばならぬ。」

 この一部分の文章をとっても、「水俣」とは何であったかが見えてくる。そして半世紀して東京電力と国家は同じことを繰り返している。「文明の進歩、経済発展」の名のもとにふくらむ迫害は、生者も死者もふみにじっていく。