死者とともに生きること


 高市早苗はどうしてあのような発言をしたか。高市政調会長は、「原発放射能によって死亡した人はいない。だから福島原発はそれほど深刻な被害ではなかった」と言いたかったのだろうか。原発推進の方向に凝り固まっているから、このような意識になり、死者が見えない。死者を見ない。死者が感じられない。
 新船海三郎君の送ってくれた「季論21」のなかに、亀山純生氏(倫理学)の論考が収められていた。論考のタイトルは「仏教にとっての死者」、そのなかに次のような記述がある。
 「現代社会は、死を<隠し>、死者の<不在>の上になりたっていると言われる。一つには、死者は社会の構成員たりえず、権利など何の社会的資格もないからである。もう一つは、長命化と医療技術の発達と、病院・老人施設等の増加で、施設で死ぬ者が圧倒的に多く、家庭で死にゆく人に接し死を看取ることがなくなっていることによる。
 ‥‥現代社会においては、<死にゆく>者としての死者ですら不在であり、肉体的生命を失った死者はなおさら忘却され、社会から消えた存在である。
 このような<死者不在>の現代社会のあり方に対して、近年、死者の位置づけの見直しが提起されている。
 一つの視覚は、環境倫理における世代間倫理の議論から発展した死者との<共同>の議論である。」
 論者の言う「一つの視覚」というのは、要約するとこういうことだろうか。死者たち(先祖)のやったことが<現在>に引き継がれて存在しており、生きているものはそれを良い環境として<未来>に継承していくことが現在世代の責任であるが、現在生きているものが過去<死者>を忘却し、<未来>の人びとは当事者でないから議論できないということでは、生者と死者の<共同体>は成立しない。この点についてどう考えるかという視覚。
 そして二つ目の視覚をあげている。
 「もう一つの視覚は、2万人もの尊い犠牲者を生んだ東日本大震災の中で、突然の肉親の死に遭遇した多くの遺族の思いを契機にして、改めて生者と死者との関係を問うものである。
 『死者との協同』という鋭い問題提起を行っているのは、批評家、若松英輔氏である。氏は、遺族が『幽霊でもいいから、出てきてほしい』とみんな口をそろえるというレポートを紹介しつつ、『死者の問題に向き合うことなく、震災の問題に本質的な解決は見出せない』と言う。そして、『多くの生命を脅かす出来事があって、人が次々と亡くなってゆく中で、死者と共に問題を解決しようとした例』として、水俣運動に注目する。そして、石牟礼道子の『わが死民』を上げ、『死者をありありと感じる一群の人びとがいて、彼らがそれを真摯に語ったとしても、それにふさわしい態度で受け入れるものが少ない、それが現代です』と言う。」
 論者は、第一の視覚は、社会的な死者(先行世代)と現在世代とが共生していくという提起であるとする。日中戦争は先代がやったことだが、現世代はその責任を継承していると考える。第二の視覚は、個人的関係や家族の関係のなかで、死者と生者とが共同、共生していくこと、そしてそれを社会的な協同にしていくこととしている。そして、今は亡き死者の生きていた存在を承認しその意味を考えることであると。
 石牟礼道子の言う、『死者をありありと感じる一群の人びとがいて、彼らがそれを真摯に語ったとしても、それにふさわしい態度で受け入れるものが少ない、それが現代です』。半世紀前に起こった水俣病公害、今も水俣に寄り添い続ける石牟礼は、死者を感じ、死者と対話し、今も死者と共に生きつづけている。
 高市という政治家だけではない。死者は過去のもの、今は存在していないものとして、その声を聞かず、その生を受け継がず、現代が無責任を押し通していこうとすることは許されない。戦争、従軍慰安婦、震災・原発など、現在焦点化している象徴的なこれらにおいて、死者たちは何を私たちに語っているだろうか。