会津藩と『八重の桜』<歴史の見方>


 忍者のように、ふわふわと、方向がないようで方向がある不思議な飛び方で、5、6匹のモンシロチョウが毎日飛びまわり、キャベツに卵を産み付ける。おかげでアオムシが、何匹も産まれて葉を食べている。一切農薬を使わないから、わが畑はチョウの楽園になっている。キャベツは冬越しをして育ってきた巨大なのが8本、今年の春に苗を植えたのが10本、球を結んでいる。アオムシには気の毒だが、そのままでは食べるキャベツにならないから、虫取りする。キャベツの南側の畝間から首を伸ばして、キャベツの葉を一枚一枚調べて虫を取る。既に結んでいる球まで食っているのは、そろりと球の外皮を動かしてアオムシがいないかのぞく。全部のキャベツを調べて2、30匹の虫を取り終え、もう一回今度は北側のうね間から見ていくと、丁寧に見たはずなのに、また虫が見つかる。見る位置を変えると見えなかったものが見えてくる。

 淀川中学校の同窓会で今の社会状況を話し合った海三郎君が送ってきてくれた「季論21」(本の泉社)の春号に歴史学者の対談が載っている。論者は宮地正人磯田道史、タイトルは「変革の時代と人と」。そのなかに会津のことが書いてあった。NHKの日曜日夜の大河ドラマ「八重の桜」は、幕末から明治維新にかけての動乱の時代を、歴史に翻弄される会津藩とそこに生きる人びとを中心に描く。主人公は新島八重
日曜日の夜は、毎週ボランティアの日本語教室があるから、放送は録画して翌日見ている。ドラマ「八重の桜」は、会津藩士の生き方と会津の自然が直裁的で透明感のあるドラマに仕上っている。このドラマを見ていると、見方が逆転してくるのがおもしろい。これまで薩摩、長州、土佐の側、すなわち維新の士の側から見てきた歴史が、その反対側の会津の歴史から見ることになる。そうすると、次第にぼくは会津ファンになってきた。
 対談「変革の時代と人と」のなかにあったのは、次のような会話。磯田道史が語っている。
 「いまNHK大河ドラマは『八重の桜』をやっていますが、あの会津藩がなぜ大河ドラマに取り上げられるような藩になるんだろうかと考えるんです。‥‥やはり天明・寛政から文化の初めごろのことを考えないといけない気がします。
 会津藩は、天明の飢饉その前後で、寒い貧しい盆地の藩ですからひどい目に遭うんです。このままだと、どうもこの藩はつぶれてしまうんではないかと思った一人に有名な家老の田中玄宰がいて、彼が一年休ませてくれと言って、熊本藩の行政の勉強をします。そして、熊本藩から政治顧問まで呼んで、徹底した藩政改革を行ないます。政治の面でも軍備制度の面でも。
 私がびっくりしたのは、会津の各藩士宅にある鎧(よろい)を、『お前たちに持たせておくと質に流すかもしれないし、手入れもしないから』と、城の中に蔵を設け、そこへ全部回収してしまうことなんです。修理も藩の甲冑職人にやらせる。これは画期的なことです。武士の集団というのは、戦国時代に土地土地に割拠する豪族たちを軍役という形で汲み上げるものの、兵役も食料も基本は自弁で参加する土豪の集合体なわけです。だから、軍事手段たる自分の甲冑を藩の蔵のなかに入れてしまうと、これはもう近代社会にあるミリタリィ(軍隊)に近いものになってくる。つまり武士が自分で武力を発動しようとしても、藩の蔵に行って開けてもらわないとできない。武士は、藩の発動する戦争しかできなくなるわけです。これは明らかにかつての武士のあり方と違う。それができたことで会津藩は明らかに戦える藩という認識が生じてくる。」
すなわち、時代は欧米列強の脅威が1800年代に入って東アジアから日本にもやってくる。千島、樺太、北海道へはロシアが荒らしまわった。それに向けて、東北諸藩が出兵している。会津も1000人以上の出兵をした。中国ではイギリスによるアヘン戦争で清が敗北、インドは植民地になる。このような時代のなかで日本の国も動乱をかかえながら、近代に向かって変革していく。諸藩に藩校がつくられ、藩士の子弟に寄宿制をともなう厳しい教育と訓練が施されるようになった。結局それらの改革を経て、明治国家の軍隊、学校制度へと移行していった。
歴史を学ぶとき、見方を変えてみる、違う角度から見てみる、事実として残っている史料にもとづいて考えることが大切である。そのことを今回学んだ。

 対談はおもしろかった。海三郎君は「季論21」の編集をやっている。