日本の歴史 <堀田善衛「若き日の詩人たちの肖像」<4>

【ひとつの資料として】

 日中戦争は続き、アメリカとの戦争が勃発寸前のころ、日本は、政府・軍部による国民統制が厳しさを増していた。「若き日の詩人たちの肖像」の記述は詳細をきわめている。
 大量検挙の準備が始まっていた。詩人、歌人俳人、画家までもその作品によって検挙されるようになった。従兄が若者にこんな話をした。
     紀元節学生の列我行かず
と詠んだだけで、国体の神聖を汚したと、治安維持法で起訴された。北海道に「エルム」という同人雑誌がある。この「エルム」という題名が問題だとあげられた。
「エルムとは札幌の名物、ニレの木だろ」
 若者が言うと、
「そのエルムだ。Eはエンゲエルス、Lはレーニン、Mはマルクスの頭文字だって言うんだ。編集後記に、エルムは伸びの速い木だと書いた。それで全員検挙された。気をつけろ」
 若者は、友人の山田が危ないと思う。山田は一度連行されて特高の拷問を受けたことがある。若者は山田に従兄から聞いた情勢を伝えた。
「戦争が始まったら一網打尽にやられるぞ。リストアップができているようだ」
「戦争が始まって、それでやられると、今度は殺されるかもしれないな」
 山田はそう言って、カバンから一冊の本を出して若者に渡した。
デューラーの画集なんだ。君にあげるよ」
 その画集には、ドイツ農民戦争の記念碑のプラントという設計図が載っている。1525年、ドイツ農民戦争は農民にとっても、革命的な市民にとっても、みじめで残酷な全滅的敗北を迎えた。この本を山田が持っていることは危険であった。
 新橋に、若き詩人たちの集まるサロンがあった。サロンの主、汐留君が激昂していた。汐留君はこれから書こうと思っている卒業論文のテーマについて語りながら、こんなことを言った。
 「伊勢物語東下りに、『むかし、をとこありけり。そのをとこ、身を用なきものに思ひなして、京にはあらじ』ってところあるだろう。身を用なきものと思い捨てたあの人の気持ちに自分が本当になれないなら、詩なんかよしゃいいんだ。あれが詩人の覚悟ってものだよ。身を用なきものに思いなした、そこから芸術のあそびとはなやぎが出てくるんだ。‥‥‥」
 汐留君の激昂が何に由来するものなのか、みなの胸にこたえて痛いほどによくわかっていた。卒業論文を書いて、そして卒業するということは、それはすでに兵役に行くということであり、その人生の中断はそのまま死につながっていくということであった。汐留君の眼にはわずかに光るものがたまっていた。卒業するというのに、誰一人として就職の話をするものもなかった。
 伊勢物語に、うじゃじゃけたようなはなしがある。わけがあって結婚できない女のところへ、何年もよばいに通っているうちに、示し合わせて女を盗み出し、夜の闇にまぎれて逃げ出した、というあほらしい話があったと若者は思い出す。あの伊勢物語というものが、そんなにも痛烈に芸術家や詩人のもつべき覚悟のこと語っているのか、と若者は思うと、何か恐ろしい気がしてきた。藤原定家の日記、名月記に語られていた怖ろしいほどの乱世に、どうしてあんなにもまったくウソのように美しい「夢の浮橋」を架けられたのか。それらのこともいっぺんに分かった気がした。
 その翌日、真珠湾攻撃がなされた。拘留されていた山田君は、召集されることになって拘置所から釈放された。そのとき、特高はこんなことを言った。
「名誉の入営をするから、祝いの餅がわりに出してやる」

 山田君は召集された。彼は若者にひとつの詩を残して行った。

        空

    石を投げよう
    行方が見えるか
    音響が聞こえるか
    二十四の秋

 たったの四行の詩であった。若者の耳に確かに音響は聞こえた。耳鳴りのようにして若者の耳に聞こえるヴァイオリンの最高音のトレモロ