学校という閉鎖空間といじめ対策法案

 「いじめ対策法案」が通常国会に提出され、6月26日までの会期内で成立を目指されている。
 内藤朝雄(明大准教授)が書いている(朝日 5/29)。
 「いじめ問題について、法律で対策を講じることには賛成だが、与野党の法案を見る限り、両者とも決定的なポイントがずれている。」
 次のような要旨である。
 いじめは、学校という閉鎖空間の中で密着した人間関係が強制され、一人ひとりが強く同調を求められる中で、どこまでも増殖するものである。閉鎖空間の中では、外部の社会とは別の心理状態になり、独自の残酷な秩序に支配されてしまう。与野党案とも閉鎖的な生活環境を改善する点を示しておらず、これは致命的な欠陥である。
 与野党案は、全般的に、『適切な措置を講ずる』といった抽象的な文面が並んでいたり、調査結果で何をするのか分からない調査の仕組みが延々と書かれていたり、野党案も無意味な調査部署や対策部署を大量に新設することで、税金の無駄づかいや天下り先、教育利権を生み出すことになりかねない。いじめは「暴力犯罪系」と、悪口や仲間はずれのような「コミュニケーション操作系」があり、後者に対しては、狭い教室のなかで毎日同じ顔ぶれで過ごす今の学級制度を変えることこそが必要なのだ。が、対策法案にはそれが欠落している。
 内藤朝雄のこの指摘は、重要である。
 「学校という閉鎖空間の中では、密着した人間関係が強制され、一人ひとりが強く同調を求められる」。このことを掘り下げて考える必要がある。
 「学校という閉鎖空間」には二つある。ひとつは教師の集団であり、もうひとつは児童生徒の集団である。
 わたしは義務教育の学校では、5校を体験した。この5校は、「教師の集団」も「生徒の集団」も、驚くほど質的に異なっていた。
 児童生徒は学級という、学校の基礎集団の一員になる。そのクラスにも質的な差異がある。たとえば、おおざっぱに言えば、活発で明るいクラス、静かでおとなしいクラス、個性的な生徒の多いクラス、きわめて消極的なクラス、いじめの起こりやすいクラス、いじめのまったくないクラスというように。
 そのような違いは、教師の人格と指導性や、児童生徒一人ひとりの集団に及ぼす影響力があって、現れてくる。クラス人員30人、40人、昔は50人という学級があった。すし詰め学級は、ベビーブームのときである。この構成員同士が生活を共にするなかで、知情意が育まれ、互いに影響を与えるエネルギーが生まれてくる。一生つづく友情が芽生えもする。
 子どもは同調する、友だちに合わせて動く、そこには力関係も生まれる。強い子に弱い子がついていく一方で、同調を拒否し、別個の動きをする子も出てくる。集団の秩序を破る子、クラス集団を変革し、新しい創造をもたらす子、さまざまな子どもの動きがあってこそ、クラスは動的に変化していく。重要なのは、それらを見極め、問題があればそれをどのように考えたらいいのか、どのように解決したらいいのか、と力をあわせる子ども集団に育てていく教師としての力量を持つことである。そこに教師集団の質が浮かび上がってくる。そういう眼を持たない教師が取締官となり抑圧者となると、クラスは育たない。無気力な陰湿なムードになってしまう。いじめも隠されたものとして浮かび上がってこない。
 制度を変えるということが、教育の質を変えることになるかどうかである。めったやたらに、教師の仕事を複雑煩雑化し、教師が子どもから離れていくようなことになるシステムは、さらに深刻な問題をはらむ。
先日、大阪の小学校の児童が登山して道に迷った。翌日無事発見されたが、こういうことが起こると、たちまち来年度は実施しないという方向に進みがちである。事なかれ主義である。この学校は貴重な実践を行なってきた。こういう実践は、教室という閉鎖空間から脱皮する実践である。事故があった場合、教育の本質的な価値を失わず、起きた問題の原因を見極めて、そこから新たな実践を目指してほしい。
 子どもが迷うことになったのは、たぶん教師の力量の問題である。登山では引率のための知識とテクニックが必要になる。山道では子どもの列は長く伸びる。列が途切れることも起こる。子どもは地面を見ながら登りがちになる。先頭を行く教師は、最後尾を常に確認しながら登らなければならない。そして最後尾にも教師がつくべきである。
 テクニックの問題を解決すれば、次のステップに上昇できる。それなのに、創造的な教育は危険だと消極化のほうに向かうならば、またも教室という閉鎖空間に閉じ込める教育になる。
 いじめという現象だけを見て、それをなくすことだけの方策では、教育全体をシステムで硬直化させる。学力のテーマも、学校教育というシステムの根本から来ていることを考えない。それでは教育はいっこうに変わらない。