体験に裏打ちされた歴史認識


 たとえば、「ローマ帝国は最盛期、版図を広げ、東は小アジア、西はイベリア半島、南はアフリカ地中海沿岸、北はイギリスに及んだ」、ということを世界史の授業で学んだとして、さてそれで何を学んだのか。何年に何があったかを知って歴史の何が分かったか。なぜそういうことが起こったのか、支配され踏みにじられた各国や地域の庶民は、そのときどうしていたのか、歴史の中の人びとはどう生きていたのか、それらを何も学ばず、考えず、できごとだけになっている。結局、世界史の授業も日本史の授業も、何の歴史認識も得られない授業がまかりとおり、生徒は、いつ、どこで、何があったか、それをおぼえて、それがテストに出る。

 会田綱雄という詩人がいた。彼は1940年に志願して中国に渡り南京特務機関嘱託となる。「特務機関」というのは、外国に駐在して、諜報、謀略工作を行なう武官である。
南京特務機関嘱託だった会田は戦後、上海で終戦を迎えた日の体験を書いている。こういう要旨である。

 1945年8月15日、わたしは上海で終戦を迎えた。数日後、凱旋した中国軍の命令によって住宅を明け渡すことになり、わたしは知人の家に移るべく、リヤカーに積む荷物を整理していた。そこへ作家仲間の武田泰淳堀田善衛が見舞いに来た。家に一升瓶の酒があったので3人で飲んだ。がらんとした部屋の壁が白く光っていた。わたしはその壁に詩を書き付けておきたくなった。わたしは墨汁を筆につけて、一気に「雨ニモマケズ」の30行を壁に書き記した。続いて武田泰淳が中国の口語詩を一篇書いた。
 「戦争が、大日本帝国の侵略であったという後ろめたさがわたしたちにはあった。わたしの住宅にしても、侵略を支える勢力によって不法に取得され、不当に擁護されていたものなのだ。口にこそ出さなかったが、武田が腹の中で、『会田のやつは、いい気なものだ。正しいことは何ひとつしなかったくせに、この期に及んで、やさしく、けなげな賢治の詩なんぞ持ち出しやがって、おまえは<侵略>の上にあぐらをかいて、ぬくぬく生きてきただけじゃないか』と考えていたとしても、わたしには、そのとき返す言葉がなかったのだ。しかし、武田よ、大戦中、正しいことは、何ひとつなしえなかったからこそ、賢治の『雨ニモマケズ』を、まさに『真言』として、わたしは信じていたのだと今は思う。」

 安倍首相の侵略についての認識が物議をかもしている。戦後生まれの首相は、肉体のリアリティをもった戦争、侵略を体験したことがない。侵略だったか侵略でなかったか、観念論をもてあそぶな。会田綱雄は加害者としての体験の認識によって被害者の体験を認識していた。そして、このような「雨ニモマケズ」という一文を残した。
会田の一つの詩を紹介しよう。

          伝説

     湖から
     蟹が這いあがつてくると
     わたくしたちはそれを縄にくくりつけ
     山をこえて
     市場の
     石ころだらけの道に立つ

     蟹を食うひともあるのだ

     縄につるされ
     毛の生えた十本の脚で
     空を掻きむしりながら
     蟹は銭になり
     わたくしたちはひとにぎりの米と塩を買い
     山をこえて
     湖のほとりにかえる

     ここは
     草も枯れ
     風はつめたく
     わたくしたちの小屋は灯をともさぬ

     くらやみのなかでわたくしたちは
     わたくしたちのちちははの思い出を
     くりかえし
     くりかえし
     わたくしたちのこどもにつたえる
     わたくしたちのちちははも
     わたくしたちのように
     この湖の蟹をとらえ
     あの山をこえ
     ひとにぎりの米と塩をもちかえり
     わたくしたちのために
     熱いお粥をたいてくれたのだった

     わたくしたちはやがてまた
     わたくしたちのちちははのように
     痩せほそったちいさなからだを
     かるく
     かるく
     湖にすてにゆくだろう
     そしてわたくしたちのぬけがらを
     蟹はあとかたもなく食いつくすだろう
     むかし
     わたくしたちのちちははのぬけがらを
     あとかたもなく食いつくしたように

     それはわたくしたちのねがいである

     こどもたちが寝いると
     わたくしたちは小屋をぬけだし
     湖に舟をうかべる
     湖の上はうすらあかく
     わたくしたちはふるえながら
     やさしく
     くるしく
     むつびあう