「イーハトーヴ交響曲」 

 80歳を迎えた富田勲が、昨年「イーハトーヴ交響曲」を創った。長年心に抱き続けてきた大きなテーマに富田勲がチャレンジし、この交響楽を完成させるまでの密着ドキュメントを昨日録画で見た。大人と子どもの300人の大合唱団とオーケストラ、そこに現代アートの最先端、初音ミクと技術者たちが加わり、指揮者に合わせて交響曲は、東北の大地と宮沢賢治の作品の世界を謳いあげた。
 富田さんは父の仕事で4歳から中国に住んだ。その直後に日中戦争が始まる。7歳のときに父の実家の愛知県岡崎に引き上げ、その2年後、太平洋戦争が勃発。そして1945年1月に直下型の三河地震が襲った。助けは来ず、救援物資はなく、人々は、食べものも、避難するところもない真冬の寒さで凍え死んでいった。そこに空襲が来た。
 冨田さんの人生はそこから始まり、その悲惨な体験が富田さんの人格をつくっていった。傷ついた富田さんを勇気づけたのは、宮澤賢治の作品だった。
 交響曲のなかには、賢治の作曲した歌も入っている。
 交響曲は、種山ヶ原の牧歌の合唱で始まった。銀河鉄道の出発点となったと畑山博がいう種山ヶ原。
    種山ヶ原の 雲のながで刈った草は
    どごさ置いだが 忘れだ 雨ぁふる
 そして「フランスの山人の歌による交響曲」の牧歌をオーケストラが奏でる。
 やがて、「星めぐりの歌」、「注文の多い料理店」、「風の又三郎」、「銀河鉄道の夜」、「雨ニモマケズ」と楽章が展開し、種山ヶ原の牧歌で終わる。
 コンサートの様子も感動的だったが、何よりも富田さんの心に、ぼくは心打たれた。 宮沢賢治とその作品は、富田の人生を貫いて彼の中に生きてきた。いつか、いつかはと思いつつ、80歳に至ってしまった。そうして「雨ニモマケズ」の曲が誕生した。いつか創りたいと願っていた夢、その夢は、祈りにもなり、希望になり、そして姿を現す。

    「つめくさ灯ともす宵のひろば
    たがいのラルゴをうたいかわし
    雲をもどよもし夜風わすれて
    とりいれまぢかに歳よ熟れぬ」

    詞は詩であり 動作は舞踊 音は天楽 四方はかがやく風景画
    われらに理解ある観衆があり われらにひとりの恋人がある
    巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす
    おお、ともだちよ 君は行くべく やがてはすべて行くであろう

    おお、ともだちよ いっしょに正しい力をあわせ
    われらのすべての田園と われらのすべての生活を
    ひとつの巨きな第四次元の芸術に創りあげようではないか‥‥
                      (「農民芸術の綜合」から)
    世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はありえない
    われらは世界のまことの幸福をたずねよう 求道すでに道である
                      (「農民芸術概論綱要・序論」から)


賢治も祈り、夢を描き、実行に生き、37歳の若さで逝った。