ニホンオオカミの痕跡を追う旅の始まり


 2012年11月が初版の「森と近代日本を動かした男 山林王・土倉庄三郎の生涯」(田中敦夫 洋泉社)を、図書館の新刊書で見つけて、ざざっと読んでみた。土倉庄三郎の名前は、何度もたどった吉野川右岸の断崖にその名が刻まれていたことを思い出す。土倉庄三郎は1917年(大正6)に亡くなっている。日本の林業は吉野林業抜きでは論じられない。庄三郎は吉野林業を全国に広めた立役者だった。
 吉野の山々の森の深さ、樹林の多様性はぼくを惹きつけてやまなかった。日本アルプスもぼくは愛して止まない山々であったが、そこには空に融け入り宇宙に吸い込まれる神秘があった。一方、吉野熊野の山々は地の霊に引き込まれていく命の群れのうごめきを森に谷に感じるところだった。
 ぼくはずっと書かねばならないと思いつつ、それに手がつけられていないテーマがある。明治の時代に絶滅したとされているニホンオオカミの挽歌である。この本を読みながら、ニホンオオカミが登場してこないかと期待していた。明治の時代の近代化のなかで、ニホンオオカミは滅ばされていったのだから。
 著作のなかに、一箇所次のような文章があった。
 明治の時代の大台ケ原はいまだ神秘の森であった。もちろんニホンオオカミはその森の主であった。古川崇という人物が登場する。

 「古川は、美濃国郡上生まれで、名古屋で木材と米穀を扱う商売に成功したが、大峰山に登った際に、いまだ人跡未踏の大台ケ原の存在を知り、その開山を決意する。
 最初は行者として下北山村に行場を設けて修行を続け、信者も生まれ始めた。1891年、四人で大台ケ原に登り、一人山に残った。風倒木の根の下に『根こそぎの宿』を設けて過ごし、食料もほとんど現地調達だった。そのうちにオオカミと仲良くなり、ともに穴の中で寝たという。さらにサル、シカ、カモシカ‥‥も逃げなくなったと伝えられる。
 97日間、山頂で過ごした古川は、翌年は厳冬期に登り、大台教会をつくることを決意する。宗教的には神習教に属したが、自然と一体となって感得する自然崇拝的なものである。」

 古川は1893年から大台教会の建設にとりかかる。そこで古川は土倉庄三郎を頼った。6年4ヶ月かけて、庄三郎の資金援助を受け、教会は完成した。
 ぼくが初めて吉野川上流の筏場から大台ケ原に登ったのは1955年だった。大台教会は晩秋の大紅葉の輝きのなかに埋まり、静まっていた。人の姿はなかった。
 オオカミの痕跡をたどる山旅は、その山行から始まったのだった。