刑務所のなかの中学校


 松本市少年刑務所には中学校の分校がある。少年という言葉がついているが、大半が20代で、さらに高齢の人もいる。刑務所の中に中学校があるのは、全国でも松本だけである。この学校の存在は以前テレビのドキュメンタリーで報道されたので知っていた。最近、「教育の豊かさ 学校のチカラ ―分かち合いの教室へ」(瀬川正仁 岩波書店)を読むと、そのなかに松本市立旭町中学校桐分校を探訪した記事が載っていた。
 この学校へは、全国の受刑者のなかから選ばれた人たちがやってくる。労働の義務が免除され、彼らはひたすら勉学に励む。
 この分校ができたのは1955年である。歴史は古く、初めのころは日本人受刑者ばかりだったが、最近は外国人が増えている。2010年は生徒8人のうち6人が外国人。2011年は、本科生4人のうち3人が外国人。2010年から聴講生制度を設けた。中学校を卒業しているが、学校にはほとんど通っておらず、学力がついていない人が、聴講生になる。2011年は聴講生が4人、うち2人が外国人。
 著者は入学式のことも書いている。入学する人は少数だけれど、400人の受刑者および関係者が参加し、100人を超える来賓が見守る入学式だった。それは、犯罪の道に落ちてしまった人たちにとっては感動的なことであった。
 「自分は見捨てられておらず、まだ更生を願っている人がこんなにたくさんいるんだ、だからがんばって更生しなければならないと強く思いました」
と一人の分校生が語っている。
 この中学校のカリキュラムは3年分を1年で学ぶ。休日も夏休みもない。ひたすら勉強する。服装は旭町中学校と同じ制服を着る。代々着るので古着である。学生服を着た生徒たちは、ため息とも歓声ともつかぬ声をあげた。
 授業は一時限が60分で、一日7時限、昼食時間は30分だけ、授業の間にトイレ休憩がある。生徒たちは、犯罪に至るまでのさまざまな人生体験がある。豊富な人生経験の反面、本格的な学びの体験は欠落している。だからこの学校で、あらためて学ぶ楽しさを知ることになるのだ。教官のこんな言葉が紹介されている。
 「生徒であると同時に受刑者です。犯罪被害者の苦しみと罪を忘れないように、同時に勉学のなかで楽しい体験をし、感動をしてほしい」。
 この桐分校創設の動きは、1953年に始まった。戦後8年、廃墟の困苦のなかから日本は立ち上がりつつあった。刑務所の255人の受刑者のうち8割、200人が義務教育未修了者だった。刑務所の役割が更生の道を歩ませることにあるとするなら、刑を終えた人たちが社会生活を送れるように最低限の知識と教養を身につけねばならない。法務省を含む2年間の協議を経て、1955年分校は生まれる。分校は、刑務所と法務関係だけの力で生まれたのではない。そこには長野県民の、教育、学問、芸術の文化があり、土壌があった。共通するのは、安曇野市の、戦災孤児を描いた「鐘のなる丘」のモデルとなった「フェンスのない少年院」である。穂高の地には、少年院と地元住民との交流が生まれ、少年たちを見守り、支え励ます住民がいたのだ。
 松本の少年刑務所に71歳の受刑者がいた。戦後の学童期、学校へ行けず、母と八百屋をやりながら生きた。漢字が書けず読めず、その後も仕事に定着できなかった。ここに来て勉強の機会ができた。なかなかおぼえられず、頭もさえないが、彼は勉強をやりとげた。
 今、受刑者の中の外国人生徒のなかには、中国残留日本人の子ども、日系ブラジル人、日系パラグアイ人がいる。日本語が分からずいじめを受けてきた。仕事にも就けなかった。就いた職場からも排除された。それからその人の犯罪が始まる。
 「なぜ罪を犯したのか、日本語ができなかったことがすべてだったという気がします。刑務所にいるうちに、日本語をマスターしたいと思います。仲間とともに勉強できるのはありがたいです」
 生徒の一人の思いである。彼の子どもは中学生になっている。日本語が話せ、書けるようになって、子どもと手紙のやり取りも電話もできるようになった。同じ中学生だから、テストの成績を比べたりもしている。社会と国語の成績は勝った、と喜ぶ。
 日本には日系ラテンアメリカ人が30万人いるという。日本から送り出した農業移民の2世3世である。彼らは日本へやってきた、いや帰ってきた。棄民だったと言われもする移民、日本の行政も国民も、彼らの生活と心のうちをもっと知らねばならないと思う。