『田舎のモーツアルト音楽祭』全校生徒のレクイエムがすばらしかった

 生徒合唱
 校庭の彫刻
 校庭にある碌山の彫刻「坑夫」



図書館においてあったチラシを洋子が持ち帰ってきて、見ると『田舎のモーツアルト音楽祭』とある。
会場は穂高東中学校で、生徒の発表と、招待演奏家の演奏の二部構成になっている。
最初この音楽祭が、尾崎喜八の詩『田舎のモーツァルト』に端を発していることに思い及ばなかった。
だが、何かしら引き付けられる思いがあり、聴きたいと思った。


10月14日、昼食を早くとって穂高東中学校へ、洋子と二人で行った。
会場は、大きな体育館だった。
すでに生徒たちの椅子が整然と並べられていて、一般席はその後ろに作ってあったが、客は少なかった。
時間が来て、整列した生徒たちが静かに入場してきた。
生徒は500人ほどいただろうか。
第一部が生徒たちの進行で始まる。
そこから発見の連続となった。
場内が暗くなると、正面のスクリーンにスライドが映され、穂高東中学校の歴史と音楽祭の由来が語られた。
そしてあの尾崎喜八の詩『田舎のモーツァルト』の朗読となったのだ。



        『田舎のモーツァルト

   中学の音楽室でピアノが鳴っている。

   生徒たちは、男も女も、

   両手を膝に、目をすえて、

   きらめくような、流れるような、

   音の造形に聴き入っている。

   外は秋晴れの安曇平、

   青い常念と黄ばんだアカシア。

   自然にも形成と傾聴のあるこの田舎で、

   新任の若い女の先生が孜々(しし)として

   モーツァルトのみごとなロンドを弾いている。



そうだったのか。喜八の詩の学校は、この穂高中学校だったのだ。
そして碌山美術館に隣り合うこの学校で、詩にちなんだ音楽祭が行なわれてきたのだ。
それが13回目になる。ということは、第1回が13年前、しかし作詩されてからずいぶん後になる。
この詩は喜八の晩年75歳(1966年)の作である。翌年、喜八は世を去った。
それにしても、このような音楽祭が一つの中学校の行事として、市民に開かれて行なわれてきたことに驚く。
公立学校は、教師の異動が定期的にあって、学校文化の伝統はひじょうに生まれにくい。たとえば合唱に力を入れる優れた指導者がいる時は合唱の盛んな学校になるが、その教師が転勤すると、それを守るのができなくなることが一般的だった。
だが、この穂高の学校では、13年間、全校合唱「レクイエム」をやってきた。


音楽祭の生徒発表は、個人発表から始まり、ピアノ、クラリネット、フルート、打楽器の演奏から、合唱になった。
一学年の生徒は混声三部「この地球のどこかで」、二年は「遥かな季節」、三年は「青春の一ページ」。
そして最後の全員合唱はモーツアルトのレクイエム「ラクリモーサ」だった。
この全員合唱には市民も参加した。入場したとき、市民に「ラクリモーサ」の楽譜が配られた。
演奏時になると、一般席から出てパートに分かれて生徒の横に立って歌う人たちがいた。その人たちは、ここにいたるまでに、何回かの学校での市民対象の練習に参加してきた人たちだ。
全員合唱の声は会場に響き渡った。女声の若く澄んだ声、男声の力強く盛り上がる声、500人が一つになり、哀しみを秘めて高らかに湧きあがり魂に触れる、みごとな合唱だった。
この学校のなかに歌が伝統として位置づいている。それは生徒たちの喜びであり誇りでもあるのだ。そのことが感じられる大合唱だった。


第二部は、プロの演奏家、『グランド・トリオ』、ヴァイオリン、チェロ、ピアノの合奏と独奏だった。
ポピュラーな短い曲を選曲してあり、横の子とおしゃべりする生徒もいたけれど、全体に整然と秩序正しく生徒たちは聴いていた。


このような音楽祭が地域に開かれて13年間続けられてきたことに、それが伝統として位置づいていることに感心する。この学校は教育のビジョンにむけて実践を生み出し、生徒たちもその価値を認識して母校とふるさとの文化として創り出そうとしているのだ。
学校教育の大切なものがこの音楽祭に現れている。


終わって学校の庭を散歩した。
尾崎喜八自筆の『田舎のモーツァルト』のレリーフがあった。
碌山の彫刻『抗夫』があった。
隣の碌山美術館の風見鶏が見えた。


家に帰ってから『田舎のモーツァルト』を調べていて、またひとつ出会いがあった。


「これはまた佳く晴れた秋の日の事だった。大町に住んでいる或る友人に誘われて安曇平穂高町付近の有名な山葵田を見物に行った帰り道、その友人の案内で或る中学校を参観した。
 槍ケ岳に源を発する高瀬川の流れを東に、常念や大天井や有明山をつい西の眼前にした広い校庭を持つ学校だった。まわりにはぐるりとアカシアの大木が植わっていて、その葉がもうすべて晴天続きの秋を黄ばんでいた。
私は、折からピアノの鳴っている音楽室というのにも案内された。新任だという若い女の先生が弾き、男女の生徒が身体を固くして両手を膝に、目を輝かせて聴き入っていた。輝くような踊るような溌溂たる音の流れ。それは私もよく知っているモーツァルトのロンド、アルラ・トゥルカ。ケッヘル三三一番の終楽章で、俗にいう『トルコ行進曲』だった。人によれば軽くあしらうその音楽を、この若い新任の先生は、孜々として弾き、それをまた、いささかも音楽擦れしていない信州安曇の中学生たちは身じろぎもせず傾聴しているのである。
 この光景は、強く私の心を動かした。そして、自分の音楽がこんな田舎町の純真な人たちから愛されることを、モーツァルトはさぞや喜んでいるだろうと思った。
 元来モーツァルトの音楽は、青年たると老年たるとを問わず、貴賤の別なく、実に万人を喜ばせ、万人の愛に値いし、また作曲家自身それを期待してもいた芸術である。
 詩の霊感から言えば、それは地方の或る田舎の中学校と、その音楽室でピアノを弾く新任の若い女教師と、それに聴き入っている純真でけなげな男女の生徒と、おりからの秋と、その光と、周囲をかこむ峻厳な山々のたたずまいとから触発されたものではあるが、そういうモーツァルトこそ、私には真のモーツァルト、少数の貴人や知識人の専有物でない、万人共有の宝であるモーツァルトだという気がする。
 そして田舎! ああ、私の郷愁の理想世界の姿であるこのいなかというもの。これこそ、彼の芸術の本当のすみかでなければならなかった。
 そして願わくば私の詩も、またそのようでありたいと思っている。 」(尾崎喜八『音楽への愛と感謝』)


喜八が穂高中学校を訪れた1966年から32年経って、音楽祭が開かれた。そしてそれから13回。
では、32年間のブランクはどうしてか、学校の歴史を調べてみて分かった。
穂高中学は13年前に、穂高西中学校と穂高東中学校に分離した。その分離によって長い歴史を持つ穂高中学校が閉校となり、そこから新しく生まれた穂高東中学校の『田舎のモーツアルト音楽祭』が始まったのだった。