遊びとは何か

 公園のケヤキの木に男の子が二人登っている。隣の木に、女の子が登っている。
今日は地区のスポーツとバーべキューの日、ぼちぼち炭火の肉が焼けそうだ。
 「ありゃ、あぶないんじゃねえか」、離れたところでの木登りを見ていたおじさんの一人が言った。
 「あれぐらいのこと、できなきゃあ」
 ぼくはそう応える。一枚写真を撮ってやろう。
 「この木にチンパンジーが2匹います」
 写真をパチリ。3メートルほどの高さのところで幹が分岐しており、その間に二人はいて、げらげら笑い出す。
 「こちらの木には、オランウータンが1匹います」
 女の子もきゃきゃきゃと笑い出す。写真をパチリ。
 「学校に木登りのできる木があるかい?」
 「ないよ」
 「そうかあ、あったらいいのになあ」
 子どもらの登っている木の上は、梢のほうがばっさりと伐られている。木の枝が落ちてきて、下の人に当たって怪我すると危ない、という意見があって、伐られてしまったのだ。

 アフリカでゴリラの研究をやってきて、ゴリラと「言葉」も交わす、霊長類学者・山極寿一が書いていた。
 ホイジンガ(オランダの歴史学者)は、著書「ホモ・ルーデンス」で、人間の特徴を「遊ぶ人」と定義した。遊びは文化よりも起源が古い。遊びは非理性的な性格をもって人を魅了し、仮想の世界に人間を解き放つ力を持っている。「ホモ・ルーデンス」を受けて、フランスの思想家・カイヨワは、人間の文化は遊びの上に成り立っている、社会規範も宗教も遊びの精神世界に由来するもの、とみなした。人間を人間たらしめる文化の多様性は、未成熟な行動様式である「遊び」を、大人の社会行動に持ち込むことによって花開いた。
 「人間がもつ旺盛な好奇心も、子どもの遊びの世界に特徴的なものだ。動物の子どもたちも、大人が興味を示さないさまざまなことに関心を持つ。さらに子どもたちの遊びは、対象を問わない。ライオンとシマウマでも、子どものころはいっしょに遊ぶことがある。それは遊びのシグナルが種の壁を越えて共通であり、子どもたちが見知らぬ相手を許容する心を持っているからである。許容力が高くなければ、未知の世界を受け入れ、新しいことを発明していくことはできない。人間行動の多様性は、この子どもの持つ許容力の高さと好奇心を、成熟後も維持し続けることによって可能になったにちがいない。」
 このように山極は遊びの重要性を書いている。
 現代の日本の子どもの大問題は、遊びが商業主義に占拠され、学校・家庭・地域社会もシステム化されて管理され、好奇心と独創性・想像性、そして枠にとらわれない許容性を制限されて、遊びがやせてしまったからである。文化の上に成り立つ遊びが豊かさを失ってしまった結果、現代の子どもの世界にさまざまな問題を起こさせる。
分子生物学者の福岡伸一氏は、よくテレビに登場する。彼も子どものころは昆虫少年だった。彼は子どものころ、ミカンの葉に生みつけられたアゲハチョウの卵を探し、黄色く光る卵を見つけると枝ごともって帰って、孵化を待ち望んだ。ルリボシカミキリへのあこがれを書いている。
 「小さなカミキリムシ。でもめったに採集できない。その青色は、どんな絵の具をもってしても描けないくらい鮮やかで深く青い。こんな青はフェルメールだって出すことができない。その青の上に散る斑点は真っ黒。大きく張り出した優美な触角にまで青色と黒色のたがいちがいの文様が並ぶ。私は息を殺してずっとその青を見つめ続けた。」
 福岡伸一少年は、息を殺してずっとその青を見つめ続けた。そのときの、好奇と感嘆の念、観察に集中する心、その体験が次につながっていくのである。