「子どもがつくる子ども会」への道


 昨晩、地元の「子ども会育成会」の役員会が公民館であった。ぼくは今年度その会の会長になっていたから、一つの考えを提案した。

 <長い人類の歴史を通じて、村落には子どもたちの集団があり、年上から年下までの子どもたちが一緒に遊んでいた。地域のお兄ちゃん、お姉ちゃんは年下の子のめんどうを見、小さい子らは年上の子から学んだ。そうして社会性が育ち、社会に生きる力が鍛えられ、郷土を知り、郷土を愛し、郷土を守る心が育まれた。また、自然のなかでの遊びを通じて、自然から学び、安全と危険を認識し、感性も豊かになった。今、子どもたちの関係は学校の関係だけになり、地域の関係は消滅した。暮らしの中の学びの体験が閉ざされている。村落に祭りなどの伝統文化があるところでは、老壮青の縦社会と地区の横社会が子どもを見守り育てる絆も残っていて、子どもたちも参加し、大人と共に文化をになっていく関係性がある。しかし、この地区はそういう場がない。
 子どもの現状について、子どもの環境について、親として思うことを出し合う場を作れないか。親たちが集まって率直に話しあえる場をつくりたい。そして、子どもたちが自分たちでつくる子ども会をめざして、「子どもによる子どもの集会」をもちたい。子どもたちが楽しく話しあえる場をつくりたい。中高生が、リーダーになって子どもたちで、やりたいこと、遊びたいこと、大人に考えてほしいこと等話し合う場を作りたい。>

 ぼくの提案にどう意見を言っていいのか分からないと沈黙気味だったが、ぼくが率直に思いを伝えていると、PTAのお母さんから意見が出てきた。

 子どもは忙しい。学校の宿題はあるし、学校が終わってからも習い事があるし、スポーツ少年団の練習がある。こういう集会を計画しても、子どもは参加できない。参加しない。育成会の年間行事計画の、子どもたちによる公園の清掃活動(一回)、「サツマイモの苗植えと収穫」や「マスつかみと飯盒炊さん・バーベキュー」なども毎年行なわれるが、参加する子が限られている。児童館に行く子もいない。児童館には、学校帰りに寄ることは禁止されていて、一回家に帰ってから行くという決まりだから、この地区まで子どもが帰ってきたら、もう児童館にいくことはしない。親の会を開催しても、参加する人は少なく意見は出ないだろう。学校の企画する地区懇談会にしても意見が出ないのだから。

 親も子も、余裕がないという。お母さんたち、まったく乗り気ではなかった。賛成意見が出ない。ぼくは少々茫然、困惑の状態だった。この地区の公民館と公園を利用することについても、「不審者がいたから危険。子どもだけでそこで遊ばないように」という注意・通達があるという。
 だが、消極的な意見ではあるけれど、何人かの人たちが自分の考えを出してくれるようになり、討議の状態が生まれてきた。
「こういう意見のやりとりの場がつくりたいことなのです。上から下ろされてくることを待ち、上に任せるお任せ民主主義ではなく、自分たちの問題を自分たちで解決していく下から生み出していく民主主義をつくらねばと、最近強く思っているんですよ。」
 小学生の子どもを持つお母さんが、「小学校・中学校主催の地区懇談会が一学期に公民館で行なわれるから、そこに参加して、意見をだしてもらったらどうですか。」と提案してくれたのを受けて、そうすることにした。

 以前、このブログに次のようなことを書いた。
 NPO法人「岩手子ども環境研究所」理事長の吉成信夫氏は、岩手県葛巻町内の廃校舎を利用して、子どもたちの遊びと学びの場「森と風のがっこう」を2001年につくっている。さらに岩手県立児童館「いわて子どもの森」館長として、子育て施設の指導者ネットワークづくりに取り組んできた。吉成信夫氏は、こんなことを書いている。
 <生きようとする意欲をかきたてるのが遊びである。子どもの成長には、心と身体を解き放ち、ゆっくりくつろぐ空間と時間が必要である。児童館には、ゼロ歳から18歳までの子が、いつでも誰でも自由に来館できる。「いわて子どもの森」では、広大な自然の中に「秘密基地」をつくり、昔の遊びや窯でのピザ焼き、子どもたちによるラジオ番組づくりなどをしている。遊びの中で、子どもたちはけんかをしたり、本音をぶつけ合ったりして、人と自然のつながりを理解している。しかし今、児童館はさらに役割を強化する必要に迫られている。児童館は、遊びの提供だけでなく、総合的福祉施設としての機能を持つ施設にしなければならない。子どもたちは、遊びの中で本音をもらす。だから、子どもの悩みや相談にかかわることが出来るようにすることである。そしてまた、保育園、幼稚園、学校、学童クラブ、児童相談所、子育てサークルなどを横断的につなぐ取り組みを進めることである。岩手県では、子育て施設の職員や指導員のネットワークづくりを、情報交換会や児童館を核にした交流合宿などで進めている。子どもたちの遊びと学びと相談を、横断的につなげた子育て社会を築いていくべきだと考える。>

「広大な自然の中に『秘密基地』をつくり、昔の遊びや窯でのピザ焼き」、この文からも、子どもの森で遊ぶ子どもたちの様子が想像できる。秘密基地づくりは、子どもの最も熱中する遊びだ。木の上につくったり、藪の中につくったり、ほら穴につくったり、自分たちの隠れ家をつくる。冒険と秘密にわくわくする。学校の建物も福祉施設も、公民館も、昔に比べたらりっぱになった。にもかかわらず、子どもの世界は貧弱になった。「自然はあっても、子どもの生活から自然は遠くなった。

 文化人類学・稲村哲也はこう書いていた。
 <社会には反抗や逸脱の仕組みも必要で、それが柔軟さや変化を生む。強圧的に管理すれば、ストレスは弱者に向かう。今の日本は、自己家畜化が高じた自縄自縛状態である。社会の中に「野生」を少しはとりもどす必要があるだろう。夏のモンゴル高原では、家族で家畜の乳搾りに精を出し、隣でじいさんと孫が相撲に興じる。しかし、厳寒の冬には吹雪が舞う。総出で子羊の群れをゲルに導き入れ、火を焚いて皆で温まる。子どもは大人たちの強さと優しさを知り、「共同」を学ぶ。日本でいま欠けているのは、そうした幼児期からの「学習」だ。欠如が世代を超えて連鎖する。自然も家庭も地域も「学習」の場を提供できないのが現実なら、初等教育にその機能の一部を持たせたらどうか。たとえば、都会と田舎の学校が一時期生徒を交換する「遊牧システム」はどうだろう。農作業体験や野外の自炊体験もいい。都会の学校には「実験農場」や「自然遊園」がほしい。>

 生活に、野生体験を導入して、自然への飛翔の自由を子どもの世界にとりもどさなければならない。それがあって、子どもは仲間というものをとらえだし、協働・連帯・互助の精神と実践力を取り戻すことになる。