子どもの原っぱ <3>


 数年前、珍しい光景を見た。小学生の三人組がチャンバラごっこをしている。畑の一角に工務店が廃土を盛り上げた小山があり、そこに登った子がお山の大将になって棒きれを刀にして振り回し叫んでいる。小山の下から二人の子が、同じく棒を振りかざして攻撃をするぞと叫ぶ。これは昭和二十年代までの光景だ。人間の子どもという天然記念物を見た思いだった。しかし、遊びは長く続かず、子どもらは引き上げていった。
 見ていたぼくが感じたのは、子どもらは無言の言葉に縛られているらしいということだった。「そこへ登るな。降りろ。ここへ立ち入るな」、大人の声だ。「そんなところで遊んでいる時間はないよ。塾へ行く時間だよ」、母親の声だ。無言の規制の声が子どもの耳奥で聞こえるのだろう。それでも子どもは子どもの自然を一瞬でも取り戻そうとする。この光景を見たのはそれ一回きりだった。
 田畑の畔の雑草を刈る作業を年に何回か農家がやっている。それが大変だからと、除草剤を撒いて、畔の草を真っ黄色に枯らしてしまう人もいる。もうバッタは住めない。コンクリートU字溝の水路は直線につくられ、農業用水はまっすぐ勢いよく流れ下る。ホタルはとうの昔に姿を消した。
 「原っぱが消えた」(堀切直人)は、「原っぱ」を「地球のかけら」と呼び、それがコンクリートで覆われ、不毛の大地になっていくことが人類の未来に何をもたらすか、危惧し、警告を発している。
 子どもの心身の成長には「地球のかけらに触れる必要がある」という発達心理学者の説も紹介している。
 「地球は子どもにとって、パワーの場、安全の場、可能性の場、源泉となる。子どもは地球に絆で結ばれるのだ。子どもは、自分が地球に向かって意思表示すると、母と同じように地球がそれに応えてくれることを学ぶのだ。子どもは、草や木や花といった自然環境に囲まれた大いなる平和と静けさを必要とする。多少のけがをしても、天与の自然の中に踏み入っていくほうが、身体的に無傷のまま、自然の外に止まるよりずっといい。」
 イディス・コップ「イマジネーションの生態学」の一端を紹介し、
 「現代世界で子どもの心身の成長が困難であることは、実にゆゆしきことであって、それは人類を自滅に至らしめるだろう。環境が崩壊し、鋼鉄とコンクリートが大地に取って代わるとき、精神もまた崩れ去るだろう。近年、子どもの世界は、大人の世界に負けず劣らず急速に崩壊しつつある。」
と、人類という種の存続の危機を叫ぶ。「地球のかけらに触れる」経験の欠如が、子どもひいては人類を窮地に追いつめている現状を憂える。
 そして森崎和江が登場する。森崎和江は詩人であり評論家でもある。彼女は昭和の初めに朝鮮で生まれ、筑豊の炭住街に住んで谷川雁らと活動し、三池炭坑闘争にも参加した。
 「幼児はいのちの源泉への問いを育てていくのだ。自分は何ものなのだろうかと、いのちとは何だろうと。1970年代初めごろまで、幼児は大人や子どもたち自身や動物などの、個体のいのちの本質について語りかけていた。だがそれ以後、幼児は、社会全体が自然離れをするにつれて、いのちの不安の背後に、類としての人間界の不安を重ねつつ、幼い語りかけをするようになった。今の幼児は、再生産が不可能なものとして、地球とか、ほろびた鳥とか、ほろびた動物とかをかぞえる。そのことで思い及ぶのが『人間はいつほろびるの』という問いとなる。」

 五歳になる孫娘が我が家で5日間暮らして、一昨日、兵庫の親のもとに帰っていった。この5日間、土と草と水で「ままごと」をした。ぼくが大工さんをすると、自分もすると言って、釘を木に打った。石ころに名前を書いて標識をつくった。ランちゃん連れて、田んぼ道を散歩した。花がしおれていたら水やりをした。どこにヒバリさんが巣をつくっているのだろうと、じっと麦畑を観察した。