虫を愛するお姫様の話

シロアリの巣があった。公園掃除で。



 平安時代の中期から鎌倉時代初期にかけての短編を集めた「堤中納言物語」のなかに、虫を愛するお姫様の話が出てくる。世に名高い「虫愛(め)ずる姫君」という愉快な物語である。
 中村真一郎の現代語訳が楽しい。それを元にアレンジして要約してみよう。

 姫は、日ごろからこういうことを言っていた。
 「花やチョウなどの外づらの美を賛美するのは、つまらない浅はかなことです。物の本体まで突き入って研究する誠実さのある人間が、本当はりっぱでしょうよ」
 そうして昆虫を集めては、
 「この成長の過程を観察しよう」
と、いろいろな大きさの虫かごに入れていた。なかでも毛虫の重厚な様子に好感が持てると、朝に晩に、かっこうをかまわないで毛虫をてのひらにのせて眺めている。若い女房はこわがって寄り付かない。姫は、怖いもの知らずの男の子を集めて雇い、虫の世話をさせたり、虫の種類をたずねたり、新しい種類のものには、自分で命名したりして、おもしろがる。
 「人間は自然のままがよろしい。お化粧は不純であるから」と、まゆげも抜かず、おはぐろも汚いと言ってつけず、白い歯を光らせて笑いながらもっぱら昆虫を愛している。女房などがいやがって逃げ出すと、姫は罵倒する。
 「仕方のない俗物ね」
と、にらみつけるから、相手は弱りきってしまう。両親も、あまりに非常識なのも困ると叱ることもあるが、姫は強い言葉で反抗するので、恐れ入ってしまう。両親にしてみれば、娘の雄弁な反駁ぶりがまた恥ずかしい。親は言う。
 「理屈はそうかもしれないがね、外聞ということもあるよ。人間は見た目の美しいものを好むものだ。いやらしい毛虫をおもしろがるなんて、評判になってごらんなさい」
 すると娘は、
 「かまわないわ。あらゆることは、原因から研究して結果にいたることによって、はじめて明白になるものよ。お父様も、案外幼稚ね。毛虫がチョウになるのじゃないの」
と言って、さなぎから脱皮してチョウになる様子を見せる。
 「人の着る絹だって、まだ羽の生えないうちの蚕が吐く糸でつくるのよ。それがひとたびチョウになれば、もう糸も出さなくなって、実用価値のないものになってしまうわ。そうじゃない?」
という有様だから、返事のしようもなく閉口するだけである。
 これを聞いていた若い女房は、
 「たいそうごりっぱな議論ですけど、こちらは気が変になりますわ。たいした遊び道具ですこと。お隣のチョウの好きな姫君にお仕えしている人たちがうらやましいわ」
 姫に仕える若い女房たちは、しきりに陰口をたたいている。それを聞きつけた年かさの女房がこんなことを言った。
 「若い人たちが何を言うやら。チョウが好きだと言う姫君だって結構とばかり言えませんよ。いえ、むしろけしからんくらいです。要するに、チョウだって、皮を脱いで生まれ変わるだけの話じゃないの。うちの姫君は、その生まれ変わるところをしらべて、ご覧になっているわけだから、あの方こそ心が深いのじゃありませんか。だいいち、チョウはつかまえると、手に粉がついて、始末の悪いものですよ」
と姫を擁護したものだから、かえって陰口をあおりたてることになった。
 姫は昆虫採集の男の子たちに、いろいろと珍しい、望みのままの賞品を与えるから、張り合いを感じて、ぞくぞくとへんてこりんな虫が集められてくる。毛虫は毛の具合がなんとも言えないが、古典に出てこないのが物足りないと言ってカマキリやカタツムリなども採集させ、それに関連した詩歌を詠ませて聞いたり、自分も声を張り上げて、
 「蝸牛角上ニ争ウハ何事ゾ」
白居易の白氏文集などの句を朗誦する。
 使っている男の子の名前も、ありきたりではつまらないからと、虫の名前をつけた。ケラ男、ヒキ麿、カナカガチ、イナゴ麿、海彦などと呼んで召し使った。
 そういうことが世間に伝わり、評判になり、するといたずら心をもつ青年が、布で蛇の模型をつくって贈り、姫を驚かせようとしたり、こっそり姫を見に来るものも現れたりしてきた。一人の男が隠れて見てみると、素顔の姫はなかなかそのままが美しい。そこで、
 「毛虫のようにまゆ毛がそのままで、心も深いあなたを垣間見てから、急に自分のものにして、大事にいつくしんであげたくなりました」、という歌を作って姫に送った。姫はそれを知っていわく。
 「人間は真理を知ってしまえば、恥ずかしいなどという感情はなくなります。この夢幻のような仮象の世界に永遠に生きて、善悪を議論するような人間はありはしませんよ」
と、一向に動じなかった。
 この物語、最後は「あとは二の巻に」として、するりと終わる。この姫、現代に生きていたら、生物学者になっていただろう。
 この話、授業の教材になりそうだ。