日本語を教えるということ

 昨夜で3回目の講習会が終わった。
 元5町村が合併した安曇野市内には元の5町村それぞれの公民館が5箇所ある。その五つで外国人のための日本語教室が開かれている。そこでのボランティア教師をやりたいと希望してきた新しい人たちは十数人いて、その人たちがどのような考え方で、どのような方法、内容で教えればいいか、ぼくは講師を引き受けて考えたのは、講義をするのはやめよう、ということだった。ずっと説明を聴くような講習会はおもしろくないし、心に届かない。具体的なヒントになる話、元気になる話、夢をもてる話を、ワークショップ風にやりながら、その場を自分の求める日本語教育の場にしてみようと思ってやった。
 昨夜、おもしろかったのは、対になる二つの言葉を、受講者二人ずつ組んで教える場面だった。言葉は、形容詞と形容動詞、日本語教育では「い形容詞」「な形容詞」と呼んでいる。そう名づけたのにはそうする理がある。日本の学校で教える国語教師はそれをほとんど知らないだろう。
 組んだ二人はまず教え方を相談して、それを日本語の分からない人たちに直接法で教えるという設定にした。
 「太い 細い」、「高い 低い」、「黒い 白い」、「暗い 明るい」、「暑い 涼しい 寒い」、「静かな にぎやかな」、「きらいな 好きな」、これらペアになる言葉を二人ずつで分担して、媒介語を一切使わず日本語だけで、言葉の意味を理解させる。
 学習者にぼくはこう伝えた。
 「では、演技、絵、実物などを使いながらどのようにして教えますか。教える相手は、日本語を知らないアフリカの人たちです」
 どっと笑い声が起こる。
 教師になった二人は順に教壇に立つ。最初のペアがチャレンジ、ホワイトボードに絵を描く。太い筒と細い筒、太った人と、やせた人、絵を指しながら「太い、細い」という言葉を繰り返す。次に自分たちの胴を両腕でなでおろして繰り返す。「私は太いです」「私は細いです」。次の人は、高い山、低い山の絵を描いて、言葉を繰り返し、二人の背丈を比べ、高低を手で示して「高い 低い」を繰り返す。三番目のペアは教室内の黒いものと白いものを次々指し示しながら、色を表していることを伝えた。四番目の人は、窓の外の夜の闇を指して「暗い」、室内の電灯を指して「明るい」と繰り返し、すぐに室内の電気を消して真っ暗にすると「暗い」、電気をつけて「明るい」と繰り返す。五番目のペアは、汗を流している絵と、木陰で扇風機に当たっている絵を描いて「暑い 涼しい」を、雪だるまがマフラーをつけている絵を描き「寒い」、そして窓を開けて風をいれ、身体で「涼しい、寒い」を表現した。
 それぞれ数分間ではあったが意欲的な演技は見事だった。「アフリカ」の人たちは大笑い。照れずに大胆に笑顔で演技する光景を見て、ぼくは「みなさん役者です、すばらしい、すばらしい」と叫んでいた。講義という形態では決して見られない光景であった。
 「静かな にぎやかな」のパフォーマンスをした人は、指を唇に当て小声で、「しずかです」とささやき、一転して大きな声を張り上げてわめきだし、「にぎやかです」と叫ぶ。
 それぞれユニークな表現の展開だった。ちょっと照れくさく、少し恥ずかしいという感情が見え隠れしたが、みんなが臆せず発表していくと、表現は実にのびのびとしてきた。
 大笑いしながら、ぼくは考えていた。日本人は、普段の生活の中で、こういう愉快な能動性を発揮しているだろうか。何かに縛られて、持ち味を発揮することなく隠したままでいるのではないだろうか。
 国語教育とは異なる「日本語教育」の特徴、それを、具体的な例題をいくつかあげて、みなさんに考えてもらった。
 「庭に、花を植える。」
 「庭で、花を植える。」
 この「に」と「で」はどう違いますか。
 「雨が降ったら、行きません。」
 「ご飯を食べたら、薬を飲みます。」
 この「たら」の違いは?
 みんなで考えて発見していく学習、当たり前として考えもしなかったことを考える。みなさん、実によく考え、発表した。
 「日本語にはオノマトペがものすごくたくさんあります」
 オノマトペの擬態語の例を出してもらうと、出てくる出てくる、次々と。「べとべと、くちゃくちゃ、ぴかぴか、わくわく、つるつる、じろじろ、ばりばり、とぼとぼ、‥‥」。
 「では、これを外国の学習者に、その感覚が分かるようにどう教えますか」
 みんなは考え込んでしまった。これは難しい。日本人が生まれ育ってくるなかで肌で感じ心に感じて理解し使ってきた言葉、その意味の「味」は説明して伝わるものではない。
 オノマトペは一つの例であった。日本語教育だけでなく、学校教育でも説明すれば教えたとしていることが実に多い。説明して教えたつもりでも、何割分かっているか。説明した=教えた、と思う自己満足。
 受身ではなく、学習者が自分たちでつくっていく。その場のみんなが打ち解ければ花開くものがある。親しくなれば歌声が響く。しかし、そうならない社会のなかのいろいろな閉塞した場面を思う。

 学習者が積極的に学習に参加する。そこでは、教えるものより学ぶものの比重が重い。学びの中に学習者が自己を表す。講座そのものをそういう場にしたい。外国人に何を教えているか、言葉を教えることを通じて、人と人とが心を通わせ、つながっていくことを示しているのではないだろうか。