外国人への日本語教室・指導者講習会 

 昨夜は、日本語教室の指導者講習会だった。
ボランティアが行っている安曇野市内5箇所における外国人への日本語教室に、今年も指導者になりたいという希望申請が新たにあり、その人たちへの講習会を教育委員会社会教育課が企画した。
 去年に続いて講師に委嘱され、またぼくの話を聞いてもらった。
 昨年来られた方も含めて、参加者は17人だった。仕事をリタイアしたから、たっぷりと時間のある人たち、人生を日本語指導で楽しんでみよう、社会の役に立ちたいと講師登録された方や、脳を活性化させて老化を防ごうと考えた方もおられるだろう。新規の人は10人だった。
 講習会では、地域に暮らしている外国人に日本語を教えるということの意味や価値に重点を置いて、教え方、教える内容についての考えや事例をお話した。
 日本語教室の指導は、単に言葉を教えるものではない。人が言葉を学ぶということは、自分の生き方を変革し、人生を創っていくことでもある。そして同時に、人とのつながりを見つけることでもある。
野菜畑をつくり、一緒に植えたべトナム人のルアン君やハップ君の話をした。そのことを通じて日本語学習は派生的に広がった。また信頼関係や親愛の情が生まれた。そのことを伝えることができたと思う。
 日本人と結婚した若い中国人女性が、おめでたであることを知ったとき、指導者たちは、ことのほか喜んだ。みんなから送られる祝福の言葉は、大いに彼女に安心感をもたらした。年輩女性の指導者は、自分の経験からいろんなアドバイスを与えることができた。彼女にとって日本語教室は頼りになるところだ。彼女の旦那の実家は他県にある。自身の実家はなお遠い中国だ。親とは簡単に相談できない。それに代わって教室の女性指導者はお母さんのような存在であり、おばあさんのような存在になった。彼女のお腹は日に日に大きくなっている。赤ちゃんは順調に育っている。
 日本語教室に来ることは、全くの自由意志であるから、仕事や家庭の事情、また健康状態によっては、休むことになる。休みが続いていつのまにか教室が遠い存在になってしまった人もいる。日曜日の夜という時間は、出かける気持ちをダウンさせることもあろう。
 それでも、行こうと思ったときには行ける、行けばそこに自分の居場所があり、自分の存在を確認する位置がある。
 しかし日本人と結婚した人が教室に行くには、配偶者の理解が欠かせない。最初、夫が同伴して来られる人もいる。けれど回数を重ねると、夫に遠慮して行けなくなる人もいるだろう。
 国際結婚は多くなっている。そのカップルのなかには、日本語を習いに行きたいが、家族に遠慮して断念している人もいるんではないか。
 幼児を連れて来るお母さんがいる。指導者は幼児にも言葉を教えたり、一緒に遊んだりしている。そんなときの教室は、子どもの声が響いて、にぎやかなことだ。勉強しているグループが部屋の一方にいて、もう一方で幼児が遊んでいる。その場面は一見して騒がしいと思いがちだが、おそらく誰も騒がしいとか、邪魔になるとかとは思っていないのではないか。
 それは大家族の姿だ。
 日本の未来社会を考えたとき、外国人を差別したり排除したりする社会は成り立たない。ヘイトスピーチを叫んでいる人が大手を振っている国の未来は寒い。
 日本の世相、国の歩み方、政治の実態、教育、‥‥なんだろうね、この国。
 日本、どうなってるんだろう。

 次の2回目の講習は、7月16日の予定。講習2日目は、参加者が自分の考えや方法論、経験を出し合うワークショップにしようと思う。みんなで輪になって、教え方を出し合い、実際にロールプレイをやってみる学習会にしよう。