相馬愛蔵・黒光と万水川(よろずいがわ)


 明治のころの万水川とワサビ畑(『相馬愛蔵・黒光著作集』)

 朝焼けの有明


大王ワサビ園を流れる万水川(よろずいがわ)の水はきらめいている。
安曇野のなかに忽然と現れ、流れて犀川に合流する万水川の、清流の美しさは比類ない。
小川だがとうとうと水量豊に、水藻の揺らぐ透明な水の中を無数の光の粒が走る。


この川の源流はどこなんだろう、と思いながら、いまだ探索の行動をとっていなかった。
地元で作られている地図を見ると、実にさまざまで、万水川は豊科の近くで途切れていたり、
堀金から三郷に向かってさかのぼり、突然断絶したり、
あるいは川筋が農業水路につながっていたり、
さらに黒沢川にたどりついたりしている。
川の途切れている一つの地図では、源流は湧水池になっている。


堀金図書館の閲覧室右奥に、臼井文庫があった。
堀金出身の作家、臼井吉見を記念した書棚で、吉見の蔵書の一部が並べられている。
昨日その存在を知った。
ちらちら本の背表紙を眺めていくと、臼井文庫のなかに『相馬愛蔵・黒光著作集』があった。
その『巻一 穂高高原』(黒光著)を借りてきて、今読んでいる。
相馬愛蔵穂高に生まれ、幼児のときに父母が亡くなったために長兄夫婦を養父母にして育った。
明治11年愛蔵9歳のとき、穂高にできた研成学校に入学する。
14歳、研成学校の寄宿舎に入ったのは、長兄が、寄宿舎で先生や先輩と寝食を共にし、規律的な生活を送ったほうが将来のためによいと考えたからだった。
15歳、松本中学に入学、寄宿舎生活を送り、
つづいて東京の早稲田に学んだ。
ふるさとに帰ってから愛蔵は、仙台出身の黒光と結婚、クリスチャンとして故郷の人々の生活改善の運動や養蚕の研究を行なっている。
そして井口喜源治と研成義塾を創設した。
後に、愛蔵・黒光は東京に出て、パン屋・中村屋を興し、
インド独立運動の志士、ビハリ・ボースに献身的な支援を行なったりもした。


黒光はこの書に、信濃に嫁いできたときのこと、愛蔵のこと、穂高での生活など随想風に書き記しているが、
その中に、『万水川』のことが書かれていた。


  「愛蔵は私をその川岸に連れて行き、かねて私が深く深くひきつけられているこの郷の水の不思議を、私に解る範囲で説明しようとするのであった。
  万水川のよろずいはまさに千山万水であった。
  この川の水上を知りえた者は誰もいない。
  あたかも西の烏川が、研究生たちの桑を採りに通う歩桑場の上手で忽然と姿を消しているように、
  このよろずいはここ半里ほどの上でいわれもなく現れ、盛り上がるように湧き流れてなお半里を下り、犀川に合する。
  上流では渡渉できぬほどに水量豊富な梓川も、平地に出るとともに流れは消え失せ、
あたかも地下に滝つぼの仕掛けられてあるように吸収し去られて
  眼に一滴の水もとどめず、すなわち空洲となって遠く遠く走り、
  そのみちを水が通るのは、雨水の一時に押して下る大雨の後ばかりである。
  ‥‥
  もしもいったんこの山(北アルプスや前山の山岳地帯)と水に憤怒せられては人を恐れ伏さしめる、
  このような性格の川は平地には見ぬところであると、
  愛蔵の万水讃は行く水とともに尽きなかった。
  無理もない、愛蔵にとり万水は亡き母上の乳にも等しい。」


今日、穂高の「わさび祭り」に行き、ワサビ店の親父さんに万水川の源流はどこかと問うてみた。
親父の言うところでは、
三郷の山懐から流れ下る黒沢川の水は、途中で大地に消える、
すなわち伏流水になる、
その水が何キロか下で、湧き水となって噴出し、そこへ地域の小川や農業水路の水を集めて、万水川となる、
ということだった。


いつか万水川をさかのぼり、源流を確かめよう。
それとともに安曇野の源流、先覚者たちの生涯をたずねていこう。