ワシーリィ・エロシェンコ

 新宿中村屋相馬黒光が応援した、南ロシア(現ウクライナ)の詩人、ワシーリィ・エロシェンコは日本語で童話も書いた。「少年少女 日本文学全集」のなかにも加えられている「鷲の心」「せまい檻」「一本のなしの木」「海の王子と漁師」などは童話、「ある孤独な心 ―モスクワ盲学校の思い出―」は、回顧録
 ワシーリィ・エロシェンコの生涯は波乱万丈の数奇な人生だった。
 彼は4歳のとき重いはしかにかかって失明する。光を失った彼は、モスクワの盲学校で学び、エスペラントをおぼえ、卒業してロンドンの盲人師範学校に入った。そのときバイオリンも習っている。トルストイゴーリキーの作品に親しみ、社会主義に共感していた彼は、亡命中のクロポトキンを訪ねたりして学校の規則に従わず、師範学校を追われた。故郷に帰った彼は、ロンドンで聞いた「日本では目の見えない人でもみんなマッサージをやって自活している」という話から日本に行こうと思い、日本語の勉強を始め、1914年(大正3年)に決行する。日本に来て彼は東京盲学校の特別研究生となった。彼の日本語はみるみる上達し、作家や思想家などとの関係が生まれ、秋田雨雀、神近市子、相馬黒光とは親しい間柄となった。1916年(大正5年)、作品が早稲田文学に載る。日本語で作品を書き、エスペラント運動に挺身し、講演も行なった。「世界における新しい精神」という講演の要旨が、臼井吉見安曇野」に載っている。
 「どんな民族にも、他民族に対する偏見がある。ロシア人はドイツ人に対し、ヨーロッパ人はアジア人に対し、偏見を持っている。これらの偏見は、人間のなかに深く根を下ろしているばかりでなく、往々にして、政府や愛国者の団体によって支持されることがある。もしこれが、国民教育の指導精神や、宗教の整理札にされたりすると、人類はどんなばかげたことをしでかすか、分かったものではない。わたくしが人類の友愛なるものの意味を知ったのは、イギリスに行き、エスペラントを通じて、いろんな民族と知り合ってからのことです。エスペラント精神がなくては、人類愛や世界平和の思想なぞ身につくはずがない。わたしたちが求めているのは、エスペラントでおしゃべりする人間ではなくて、エスペラント精神で活動する人間です。夢見る人ではなく、覚めて行動するひとです。今は利益を分けるときではなく、犠牲をささげるときであり、刈り入れるときではなく、種まくときです。」
 「エスペラント精神」というのは、異なる文化や言語をもつ世界の人びとがたがいに対等な立場で友愛の精神をもって世界平和に寄与しようというもの。
 その後、エロシェンコは、タイ、ビルマ、インドに行き、イギリスの植民地であったインドで国外追放を受け、再び日本にもどり新宿中村屋の世話を受ける。折りしもロシア革命の直後だった。彼の活動をよからぬものと見た日本政府は、彼を国外追放に処した。エロシェンコは、いったんシベリアに入るが、故国に戻れず、中国に入り、魯迅などの助けを受けて、北京大学、北京世界語学校の教授となり、魯迅、周作人と一緒に暮らした。そして中国でも「エロシェンコ童話集」ほかが刊行された。ソビエトに帰ってから彼の晩年は不遇で、1952年この世を去った。
 「安曇野」のなかに、エロシェンコが相馬夫妻によく話したふるさとウクライナの自然が書かれている。
 「白鳥の一群が過ぎたのちは、空に雲ひとつなく、地平線へ続く野づらには、ところどころに白樺やポプラのかたまりが見えるばかり。動いているのは遠い風車のほかには、近くの川べりをよちよち歩いているガチョウぐらいなものであった。ポプラをそよがし、乾草のにおいをはこんでくる風が光り、ものうげな牛の鳴き声が伝わってくる。」
 生家は広い土地と幾頭かの馬や牛をもつ小地主で、別に酒屋を営んでいた。裸馬を追っかけて横のりしたり、牛の乳搾りを手伝ったりもした。
 作品「ある孤独な心 ―モスクワ盲学校の思い出―」には、閉ざされた盲学校の生活と、指導者たちの権力の横暴が書かれている。

 今朝、白鳥の群れが、クォークォーと鳴きながら青空を横切っていた。V字の一組、竿になった一組、三組の一団だった。シベリアに帰る白鳥の北帰行が始まっている。遠いシベリアまで、無事に帰れよ、去り行く姿を目で追いながら祈った。