ワシーリィ・エロシェンコ <3>



 話の続きを簡単に書いておこう。

 皇帝ニコライ二世のおじにあたる大公が盲学校の参観に来た。大公はモスクワ総督だった。警官や憲兵がものものしい警備についた。
 講堂に生徒は集合するよう命じられ、予定時刻より20分ほど早く合図の鐘が鳴った。が、エロシェンコはそれより遅く講堂へ向かった。行く途中、知らない人に呼び止められ、質問をされた。
 「きみは昼飯を食べた?」
 食べたと答えると、おいしかったか、まずかったか、と訊く。
 まずかったら、もっとおいしい昼飯を食べさせてくれるのか、エロシェンコ、がたずねると、そうしてあげると知らない人は答えた。ひどくまずい昼飯だという答えを聞いてから、知らない人はまた問う。
 「きみは相手の人が見えなくても、好きになることがあるか」と。
 「ぼくには友だちの顔が見えなくても大好きです」
 「きみはぼくが好き?」
 「ぼくはあんたを知らない。知っていてもあんたを好きになれない」
 実はその人が大公だった。教師たちは二人の会話を青くなったり赤くなったりしながら聞いていた。
 大公が帰った後で、先生たちはエロシェンコを特別室に押し込め、退学させる相談を始めたが、退学はまぬかれた。。
 生徒は二週間に一度公衆浴場へ行くことになっていた。あるとき、浴場へ行く途中で知らない人にあった。ラービンとエロシェンコは、見えない目でその人と会話を交わす。それを見つけた先生が飛んできて二人のほおをぶった。こじきと話をするとはなにごとか。
 浴場に着くと別室に入れられた二人は、学校の名誉を傷つけたという罪でムチ打たれた。痛みに歯を食いしばりながら、ラービンは叫んだ。
 「ぼくたちはあの人が恐ろしいこじきだなんてちっとも知らなかったんです」」
 「じゃあ、いったい誰だと思ったんだ」
 ラービンは答えた。
 「ぼくは、あの人を殿下だと思ったんです」
 エロシェンコがつけくわえた。
 「ロシア中でたったひとりしか持っていない、りっぱな勲章を胸に飾ったあの大公殿下だと」
 それを聞いた先生ののどから、不思議な叫び声がしぼりだされた。二人はその叫び声の中に、一種の問いと、おどろきと、恐れとを聞いてとった。ムチは先生の手を離れて床に落ちた。
 本文はそこでこう記している。
「おそらく先生は、その生涯で始めて、そして最後に、頭の先からはだしの先まで黒くなるほどたくさんのシラミをつけ、胸にはロシア中で彼だけが持っている特別な勲章を飾った大公殿下のおさめている暗闇の国のかたすみを、その瞬間ちらっと見たのだろう。」
 学校に帰ってから、先生たちは何も言わなかった。そして校長にも報告されることがなかった。その責任を問われることを恐れたからであろう。

 「先生ののどから、不思議な叫び声がしぼりだされた。二人はその叫び声の中に、一種の問いと、おどろきと、恐れとを聞いてとった。」
 ムチを振り下ろしていた教師たちの胸に湧いた驚きと恐れとは、どんな思いだったのだろうか、先生たちは何に対してムチをふるっていたのだろうか。
 はたまたムチ打つ行為が示していることとは何だったのか、二人はどうしてそのこじきが大公であるととっさに言ったのだろうか。
 教師たちは盲目の二人から自分たちの何かを気づき、見えている自分たちが見えていないものの正体を何か感じ取ったのではないだろうか。