体罰のルーツ


 戦後教育のなかに生きつづけた体罰のルーツは、明治の近代国家づくりの根幹に位置づけられた軍隊と学校という制度の近さにある。
 臼井吉見の大河小説「安曇野」のなかに、そのことに触れている部分がある。この小説に登場する相馬愛蔵の家は穂高の養蚕農家だった。相馬家の愛蔵も父も開明の人で、井口喜源治が穂高につくった私学、研成義塾を設立から応援してきた。愛蔵は良(黒光)と結婚して東京新宿にパン屋「中村屋」をおこす。そしてそこにアトリエをつくり、サロンを設けて、芸術家、作家、思想運動家などの交流の場にした。近代日本初の女性エッセイストとなる相馬黒光は、彫刻家の荻原碌山や、ウクライナ人の詩人、ワシーリィ・エロシェンコなど多くの人を応援した。
 1923年(大正12)、関東大震災がおこり、その2年後のことである。二人の間にできた息子・安雄は早稲田大学を卒業していた。

 「中等学校以上のすべての学校に現役将校を配属して軍事教練に当たらせることになったのは、この四月からであった。世界的な軍縮気運のために、四個師団の廃止を余儀なくされた陸軍が、余った現役将校を学校にふりむけて、あわよくば軍の予備力の増強をはかろうとするねらいと、大学や高専にひろがりつつあった左翼思想を阻止するために、軍事教練の強化をもくろんだ政府の教育政策が一致したところから生み出された一石二鳥の案であった。これまでの軍事教練の指導は、予備役将校に各学校が委嘱し、校長の統括に服するものであるが、配属将校は陸軍の現役で、別個の指導系統につながるもので、従来の予備役将校のほかに、新規の増員をはかったものである。このような新しい軍事教練に反対する叫びは、前年来全国的に高まったが、その中心になったのは、大山郁夫教授を擁する早稲田大学であった。ことしになると、正月早々軍事教育反対デーが計画され、九段の牛が淵公園に五千人の学生が集まって、警官隊と衝突、大勢の学生がつかまった。小樽高商の問題は、この燃え上がった反対運動に油をぶちまけた結果となった。」

 ここに出てきた「小樽高商の問題」というのは、小樽高等商業学校の野外演習で、配属将校の少佐が生徒たちに示した想定であった。
 息子、安雄はそのことを報じる早稲田大学新聞を愛蔵に見せる。そこにはこんなことが書かれていた。口語に要約すると、
 「十月十五日朝、天狗岳を中心に大地震が起こった。札幌、小樽の家屋は倒壊、火災が発生し、人びとは恐怖の中でどうしてよいか分からない状態である。無政府主義者たちは、朝鮮人を扇動し、札幌、小樽を全滅させようと画策している。在郷軍人団はこれを撃退しているが敵は頑強に反抗し、進撃は頓挫している。小樽高等商業学校生徒隊に命令が下った。午前九時、校庭に集合し隊を編成する。在郷軍人団と協力し、敵を絶滅せよ。」

 安雄は、新聞記事を示しながら、この想定は二年前の関東大震災のときに陸軍がやったこととそっくり同じで、その再現だ、と父に話す。
 「震災のどさくさにつけこんだ、あんな恥ずかしい犯罪に対して反省もなければ呵責もない。陸軍の凶悪思想は一貫して変わりがない。こんなやつらが愛国者づらをして、学校教育にまでふみこんできたんですからね」
 関東大震災のとき、燃える東京で、朝鮮人が暴動を起こしている、井戸に毒を投げ込んでいるとかと、軍によるデマが流され、朝鮮人6000余人が殺され、無政府主義者なども殺された。安雄はそのことを言っている。
 「軍事教練に反対する叫びは、前年来全国的に高まる。その中心になったのは早稲田大学であった。軍事教育反対デーが計画され、九段の牛が淵公園に五千人の学生が集まって、警官隊と衝突、大勢の学生がつかまった。」
 あの時代にあっても、学校を軍に飲み込ませようとすることに対して、このような行動が起こされていたのである。
 1945年の敗戦を経ても、学校のなかにずっとつづいてきた流れがある。そこに潜み続けているのが体罰である。