まちをつくるロマンとビジョン


 佐賀市民から、「まちを元気にしたいから手伝ってくれませんか」という電話を受けて、佐賀出身の西村さんのやったことは、「何でもできる緑の原っぱ」だったという記事は示唆に富んでいておもしろかった。(「朝日」)
 記事の主は建築家でワークヴィジョン代表の西村浩さん。
 西村さんの子どものころ、佐賀市の中心に広がる商店街はにぎやかだった。それがみるみるさびれていったのは1990年代、商店もアーケードも消えた。ふるさとに帰った西村さんは、1年間市民と議論し、仲間を作った。やがて佐賀市から正式に依頼され、地元の人と「街なか再生計画」をつくる。そして「わいわいコンテナ」という社会実験をした。
 街がさびれると空き地が増える。多くの空き地は青空駐車場になっていた。そこで実験したのが「わいわいコンテナ」、駐車場や空き地を借り、そこに芝生をはって自由に遊べる原っぱにした。その広場にイベント用のコンテナを置いて、国内外の雑誌、絵本、漫画などを並べた。2001年夏、来た、来た、来た、子どもたちや親、おじいちゃん、おばあちゃん、次々集まってくる。それから記事はこう書いている。
人って、安心できて緑があり、何でもできる空間があれば、集まってくる。おもしろいのは、翌年に始めた『わいわいコンテナ2』の脇に、ラーメン屋ができたこと。まさに、人が集まるところに市が立った。街のど真ん中が原っぱになれば、街なかは変わる。人が戻ってくる。時間はかかるけれど、少子化、超高齢化社会にふさわしい、ゆとりのあるゆったりした街、商店街ができる。
 ふるさと再生のため、息長くやるつもりという西村さんは、北海道のJR岩見沢駅が漏電で焼失したあと、駅の再建と再生に市民と取り組んだ人である。岩見沢の街は鉄道とともに発展した。市の東に石狩炭田があった。岩見沢は農村と炭鉱の中心都市であった。しかし炭鉱は閉山、街は活気を失う。2000年12月、駅舎が全焼。 その5年後、新駅舎設計は市の公募によって、西村浩さんに委ねられた。初めて訪れた西村さんの目にした市内は広がるシャッター街、廃れゆく街の光景だった。「九州も北海道も全く同じ。こんな街づくりは間違っている」と、西村さんは思った。着工にあたって西村さんは、岩見沢らしさを取り戻し、街の再生を考えることを重視した。古レールと道産の赤れんがを駅舎に使い、「鉄道の街」として栄えた記憶をよみがえらせよう、西村さんは、街づくりに関わってきた市民に集まってもらう。そして提案したのが、自分の名前と出身地を刻印したレンガを市民に寄付してもらい、駅舎正面に飾るということだった。こうして事務局「岩見沢レンガプロジェクト」が立ち上がった。4千を超えるレンガ基金応募が寄せられ、岩見沢への思いがレンガに刻まれた。「みんなで作った駅。街づくりがやっと始まった」 と市民から喜ばれる駅舎の完成だった。失われた記憶がよみがえり、新たな記憶も刻んだレンガの駅舎は、街づくりのスタートになった。
 岩見沢と佐賀のプロジェクトのベースにあるのは、市民の参加だった。ひとつの建物を建てるのも、その後の未来につながらなければ意味がない。まちを再生しようという意欲が生まれるように企画し、それへの市民の参加が必要だ。そういう市民の意欲を喚起する触媒の役割を行政が果たしている。
 佐賀市の実験が示すのは、街なかの「ひろば」の意味である。
 日本の都市は、「広場の思想」が欠落している。市民が広場に集うという歴史がなかったこと、市民の政治参加の歴史が浅かったことなどが「ひろば」をつくることにならなかった。
 佐賀市のプロジェクトでは、まちなかに「何でもできる緑の原っぱ」ができると、人が集まってきた。少し仕掛けを用意すると、さらに行きたくなって人が集まってくる。そして店が生まれた。街が生まれる歴史過程を見るようだ。そこに市がたち、行ってみたくなる。かくて街づくりが市民によって練られつくられていく。
 安曇野市でいま着工されようとしている市庁舎は、街のど真ん中、まさに緑の広場にふさわしいところが建物になる。貴重な空間だったところに、市民の意見の封じられた4階建ての庁舎が建てられる。原っぱ、広場は市街地のどこにもない。市民広場よりも庁舎が優先された。ロマンやビジョンが欠けると、未来につながる発想は生まれない。