野の記憶     <14>

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野の記憶 (「安曇野文芸2019・5」所収・改稿)

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  日本では歴史的に「広場」がつくられなかった。古代ギリシア都市国家の中心街には広場がつくられ、市(いち)が立ち、市民はそこに集い、政治,哲学などを論じ合い、市民総会も開かれた。デモクラシーはこの市民の広場での集まりからうまれてきた。が、専制国家は権力者の権力誇示に広場を統制した。日本には街の中に広場がない。

 スペインを旅し、バルセロナの大聖堂前広場に行った。お昼の時間帯になると、楽団がやってきて楽器を取りだし、人が集まってきて手荷物を持っている人はそれを広場の真ん中に置いた。演奏が始まると、地元カタルーニャの民族舞踊の輪ができた。フランコ独裁政権による弾圧の下でも、カタルーニャの人々は各地のカテドラル前の広場で自治を象徴する民族の踊りを絶やさず、今も踊りの輪ができる。

 

 日本を愛し「ニッポン景観論」を書いた東洋文化研究者のアレックス・カーは、歴史的風土や文化の変わりゆく日本を憂い、日本の暮らしの文化を受け継いでいく活動をする。ヒッチハイクで日本中を旅し、旅の途中で訪れた徳島県祖(い)谷(や)に感銘を受け、三百年前のわらぶき屋根の古民家を購入し、そこを拠点に「NPO法人篪(ち)庵(いおり)トラスト」を設立した。宿泊客の六割は欧米などから訪れる人である。彼は言った。「官僚機構と土建経済によって、日本は立ち腐れてしまった」。

 阪神淡路大震災で被災した作家の小田実は、市民による復興に取り組んだ。だが、神戸市の計画は市民の願いとずれていて、市の計画は、道路を拡張新設し建物を高層巨大化するものだった。住民の願う復興は、安心して歩けて、歩いて用がたせる愛着のある街だった。車がないと用がたせない都市は都市ではない。神戸松南地区の住民は自分たちで「復興町づくり憲章(案)」をつくった。生き残った者の体験を掘り起こし、震災前の街の記憶を呼び戻す。そこから憲章を練った。過去を捨て去る都市計画ではなく、震災前の生活と亡くなった人びとの記憶を大切にしながら、麗しい街の復興をめざす。震災の体験を活かし安全な住宅を確保し、災害に対してしなやかに強い街をつくろう。だが住民の憲章は生かされることなく市の計画は進められた。

 小田実は、「日本の民主主義は形骸化している」と痛烈に批判した。傷ついた人が未来へ生き続けるための必要条件とは何なのか。