経験の質と意味


 「経験は人をつくる」というとき、どんな経験が人をつくることになるのか、人をつくるとはどういうことなのか。
 経験には、経験の質、経験の意味というものがある。さすれば質の高い経験とはどんな経験だろうか。経験すべきではない経験とはどんな経験だろうか。
 体罰、いじめ、パワーハラスメントセクシャルハラスメント家庭内暴力など、現代社会にはさまざまな暴力が存在する。そういう暴力も体験ではある。そういう体験はその人にどういう働きをするであろうか。戦場体験のような強度のストレスから生じるPTSD(外傷後ストレス障害)は、人を内面から破壊する。体罰、いじめによる自殺は、受けた体験による内面からの自己破壊だった。  
 「自然体験論 農山村における自然学校の理論」(野田恵 2012年10月 みくに出版)を読んで、人を育てる体験とはどんな体験だろうかと、体験の質を考えた。
体験することによって、感じ、思考し、認識し、意志をもち、次の行動や能力、生き方に影響を受ける。よき体験は人に力をもたらし、人を育て、希望をもたせる。その逆の体験は、人を無力にし、絶望させ、自暴自棄にさせる。
 火を焚いて風呂を沸かした体験、昆虫、カエルをつかまえ観察した体験、毎日川で遊び魚をつかまえた体験、道で休んでいたおばあさんの荷物をかついで家まで運んであげた体験、トイレ掃除に熱中した体験、山の頂上まで歩いて登った体験、観察日記を毎日書き続けた体験、みんなとの話し合いで思い切って意見を出した体験、いじめた体験・いじめられた体験‥‥
 さまざまな体験があり、それらが子どもたちのなかで何かを生み出す。
快適な体験があり、不快な、苦痛をもたらす体験がある。
喜びや楽しさ、充実感をもたらす体験があり、嫌悪や憎しみ、怒りを生んだ体験がある。
 教育のなかで考え、求められるのは、もちろんその前者になる。しかし、不快な、苦痛をもたらす体験であっても、それをやりきったときに、喜びや楽しさ、充実感をもたらす体験に変わるものもある。そこに当事者の子どもの主体性、能動性がからんでくる。高い質の体験は、それを予測して考えられる。
 ぼくが中学生だったとき、毎年冬には、金剛登山が全校生徒参加で行なわれた。河内長野駅から頂上まで、麓の長い道を各人自分のペースで歩き続け、千早城址から山道に入る。冬の金剛山には雪が積もっていた。2年生のとき、ズックの運動靴で登った。頂上に着いたときボロ靴は水を含んで、足は冷え、感覚がなくなり、強い痛みを感じた。服装も貧弱で寒さが体の芯まで浸透した。ぼくはもう半泣きだった。二度と来たくないと思った。翌年の3年生の冬、また金剛耐寒登山があった。このときは、寒さ、冷たさに押しひしがれることなく、いつのまにか全生徒のトップを数人のグループで歩いた。山道に入ると、楽しさ、おもしろさ、冒険心がどんどん心に湧いてきて、頂上までトップで行ってしまった。それが極端すぎて、教師たちの指示に反していたということで、後から大目玉を食うことになった。翌日、学校の朝礼で、そのときのグループ5人は全校生徒の前に立たされ、説教されたのだった。それでも登山の体験で湧いた充実感のほうが大きかった。
 ぼくの中学時代、遠足も旅行も実に自由だった。列を作って歩くということはない。それぞれ自由に歩く。遠足で海へ行ったことがあった。自由行動のとき、男子のやんちゃ連中が舟に乗ろうと相談して、伝馬船の船頭と交渉した。いくらか金を払うということで彼らは小遣いから少しずつ出して舟を借り、自分たちで海に漕ぎ出した。ところが、そのうちの一艘が転覆してしまった。さいわい岸に近かったから、大事に至らなかったが、彼らは濡れた服で帰るはめになった。学校の計画、指導のあり方としては問題もあったが、教師たちとしても新しい教育法の試行錯誤だったのだろう。
 子どもは実に多くのことを体験して育っていくもので、現代の社会と家庭、学校が、どのような体験を子どもの世界に用意できているか、それがきわめて貧困になっているように思う。競争原理が生活を貫いて、勝つこと、テスト成績を上げること、進学することなどが目的化する。勝つための生き方は、敗者にならない生き方であり、敗者を作る生き方となる。そこに足場を置いている教育だから、質の高い経験は細るばかり。そこで将来の生き方につながる教育の場が求められる。
 人間の尊厳をまもり、生命の共同体である社会をつくる人、そのための教育とはどんな教育か、どんな体験教育が必要なのか、体罰、いじめの問題はそこを基点にしないと教育の基本が定まらない。