体罰問題の元にある「性善説」と「性悪説」


 「愛のムチ」はあってもいいという、肯定論が根強いという新聞報道があった。体罰肯定論は、「時と場合によって、体罰には効果がある」「外からの厳しい力の指導がなければ人間は育たない」と考える。
 それについて、宮城教育大学の神谷拓氏は、「『時と場合によって、体罰は許される』という価値観は、容易に体罰の全面肯定に転じる。教師の体罰は『精神の教育』という言葉とセットになっている。教師も生徒も体罰は道徳教育の一環という価値観がすりこまれ、体罰を受けたものは再び体罰を肯定するようになる。」と述べている。(朝日)

 シュタイナー教育の研究家であった高橋巌氏は、人間とは何か、という人間観の違いから来る教育観の二つの流れ、「性善説」と「性悪説」について次のような解説をしている。

 教育史のうえで、マルクス主義の教育も、アメリカのデューイの教育論も、ドイツのヘルバルトの教育も、基本的には人間の子どもも生まれたときは他の猿や犬や猫と同じような動物にすぎない、だからできるだけ外から枠をはめて、その枠内で子どもの人格をつくりあげようとする。それに対して、ペスタロッチ、フレーベル、モンテッソリの考え方は、人間は大きな運命の導きに従って、一人ひとり違った課題を背負ってこの世に生まれ、そして善なる意志の力でその課題に応えようとする、だから子どもの中にすでに潜在的に存在している可能性をできるだけ傷つけないで、大事に育てていくことが教育だ、という。一方は、すぐれた彫塑家のように外側から手を加えて、人間の人格を形成していく。もう一方は、園芸家のように、美しい花を咲かせる力を内包した種を、よい土と、熱と水と光と空気によって、内面から生長させ、きれいな花を咲かせるという立場を取る。
 すなわち前者は、子どもというものはほうっておいたら、いくらでも悪くなる、どうしようもない存在なのだから、枠をはめ、厳しくしつけ、場合によっては体罰を加えて、許されないことをしたらひどいめにあう、と何度も何度も繰り返して心にたたきこんでおくと、はじめて社会人として、まともな社会生活を送れるようになる、と考えた。すなわち生存競争のなかで生き抜くためには生存条件にうまく適応していかねばならないから、そのために力をつけねばならない、と考える。しかし後者は、人間一人ひとりの個性はもっと深い存在根拠をもっている、と考える。
 高橋巌氏は、シュタイナーの考え方から人間を見て、こう述べる。
0歳から3歳までの幼児は、信じられないくらい神秘的な存在である。第1に、環境に対して100パーセントの信頼感を持っている。子どもの魂は周囲に向かって100パーセント開かれ、まったく無防備である。次に、子どもは、いろいろな感覚(視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚)を通して自分の中に入ってくるものが、同じ存在のいろいろな側面を表していることを感じ取るようになる。それから身体全体を動かすようになり、子どもは、家族、親の喜びを感じ取り、自分自身も喜びを感じ表現するようになる。そして立ち上がり、言葉を覚え、考えるようになっていく。この育ちの過程は、子どもによる大人への祝福であり、生き甲斐の贈り物であるように思える。この親子の信頼の時期から、幼稚園、小学校へ行く時期になると、親と子の仲が引き裂かれ、そのころに体験することが子どもの人格形成に大きな影響を残すようになる。そうして性善説だった親に性悪説が芽生え始める。
 そして日本の学校教育と教育行政は、性悪説に立ってきたと、ここから高橋氏の論が展開される。(「シュタイナー教育を語る」高橋巌 角川選書
 体罰、暴力を、その行為について論じるだけでなく、人間論からもっと考える必要がある。