犬の自由度



 雪の日、ランは居間のストーブの前でぬくぬくと眠る。お向かいみよばあちゃんのマミは、外の犬小屋の、毛布に丸くなって寝ている。マミは散歩のとき以外は数本の杉の根方の犬小屋だけで毎日過ごしている。条件から見れば、ランは幸せ、マミは寒そうでかわいそうとなる。でも当の犬はどう思っているか分からない。
 ランは、夜になると二階に上がって自分の毛布のあるところで眠る。夕食も終わって、もう二階に上がりたいと思うと、居間のドアを開けてほしいと、ぼくのところにやってくる。椅子に座っているぼくの太ももの上にあごをのせて、眼でものを言う。それが意思表示だ。
 「二階に行くの?」
 ドアを開けてやると、ゆっくり居間を出て行く。ところが、二階へ行って休みたいと思わないときに、
 「二階に行くかい」
と催促すると、動かず、行かないよという意思をはっきり示す。
 ランはこの2月で8歳になる。人間で言えば50歳ごろか。大分から子犬のときにもらってきて、家族として一緒に暮らしてきた。犬にも考える生活があり、意思をもち、判断をする、感情もある。
 ぼくがどこかへ出かけるとき、ランはじっとぼくの行動を観察する。自分も一緒に散歩に連れて行ってもらえるのか、自分はお呼びではないのか、それを判断しようとして、少し距離を置いてこちらを観察する。ぼくの行動から自分も一緒に行くのだと判断すると、急いで玄関にやってくる。そこでリードをつけてやると土間に下りる。
ランのご飯は、朝7時と夕方5時と決めている。ランの頭にはそれがきっちり入っていて、おまけに体内時計があるから、時間が来ると待ちの姿勢になる。そのときは、ものすごい意思の集中がある。ぼくや家内の近くに来て、眼をじっと見つめて待つ。この待つときの眼力は実に強い。精神を集中させて見続けるものだからこちらの顔に穴が開くのではないかと思う。アイコンタクトという言葉がある。眼で意思表示をすることだが、犬と人間のアイコンタクトは長い歴史の中でつくられてきたものなのだろう。犬は人間の眼から情報を読み取ろうとする。
 コミュニケーション手段の声にもいろいろある。「ワン」という一声、それもそのときの意思によって異なる。外で過ごしていて、雨が降ってきたときに、「雨だよ」と知らせる「ワン」、強風がきらいだから「風が吹いてきた」と知らせる「ワン」は、「家に入りたい」という気持ちを表す声になる。あるとき、突如強風が吹き出しランは落ち着かず、次第に不安感が増してきて、ランの声に悲壮感が混じった。寂しいときに呼ぶ「ワン」、だれかが来たと注意喚起の「ワン」、いろんな「ワン」。
 夕方、ランは家の中にはいる。そこへ外からぼくが帰宅すると、ランは玄関口に来て「お帰り、お帰り、お帰り」と立て続けに吠えて喜ぶ。ぼくが家に上がると、やっこさんは、二階に駆け上がって階段の上でぼくを見下ろし待っている。服装を着替えるためにぼくが階段を上がりだすと、脱兎のごとく寝床のところに跳んで行ってチュウチュウと呼んでいる布のぬいぐるみのようなおもちゃを口にくわえてかむ。すると、中に入っている笛が「チュウチュウ」と鳴る。獲物をとらえる感覚があるこれが大好きで、帰ってきたぼくを見ながらランはしきりにチュウチュウと音を鳴らす。そのおもちゃを楽器にしてぼくを喜ばそうとしているのだ。ランは夜眠るとき、この「チュウチュウ」を枕もとにおいて寝ている。
 自分の寝床はいちばんリラックスできるところなんだろう。頭や背中をじゅうたんの上にこすりつけるブレイクダンスをしてから、くるりと丸くなる。
 昼間、外の庭にいるときはリードの長さだけの自由しかないが、家の中ではリードをはずしてあるから、自分の意思と判断でランは動いている。ただし、入ってはだめなところは心得ていてそこには入らない。そういう自分の意思と判断で動くことができる自由度が、実にさまざまな姿と行動を見せてくれることになり、おもしろいなあと感嘆することしばしばである。
 ドイツでは、犬は飼い主の足元をつかず離れず、リードなしで散歩し、すれ違う犬にも人間にも知らん顔で通り過ぎる、と聞いた。街の中の広場や公園で、犬たちは自由に駆け回っている。しかし犬は、飼い主の指示からはずれて行動しない。ドイツは犬の天国と言われるがそれだけに飼い主も義務を果たしているようだ。中国でもリードなしに飼い主と一緒に犬たちは公園に集まってくる光景を何度も見た。その犬たちは出会っても、吠えかかることはなかった。
 日本ではリードをはずして他の犬と接触できるのはドッグランだけだ。