あきらめるということは真理に基づくということ



 今日も一日雪、朝7時から8時の間は、燃えるゴミを集積所に出す時間。両手に2袋もって、500mほど雪道を出しに行った。雪の降りしきる日だから、集積所のゴミの量が少ない。今日のゴミ当番の二人は、ゴミ置き場の横に作られた小部屋でストーブに当たっている。
 メールが来た。望君の地球宿を拠点にして活動している「あづみのひかりプロジェクト」の大浜エツコさんからだった。去年の夏の「福島の親子保養ステイ」で子どもキャンプを担った「どあい子ども冒険クラブ」の大浜さん夫妻は大黒柱だった。「あづみのひかりプロジェクト」は、今年の夏も原発被災地の福島の人たち保養ステイをやろうと決めている。それにかかる費用では、できるだけ被災者負担を少なくしたい。費用をどうやって集め、捻出するか、それがこれからの課題だ。エツコさんは、福島から送られてきたメールを紹介していた。

 「保養ステイ、我が家は、今年も行く気満々で、主人も休みを調整して参加したいと言ってました。ソレだけ、子どもたちの帰って来た時の笑顔が印象的だったんでしょうね。外で遊んで体験して心を育てる時期に、この原発事故により屋外での遊びを制限され、屋内でゲームやテレビの日々…。以前に比べれば、多少は外で短時間遊ぶことはできるようにはなったものの、子どもたち自身が放射能を気にして、草や土には触ろうとはしません。そんな姿をずっと見てきた親として、安曇野での体験は、ホントに心の成長が感じることができました。お世話になりっぱなしの日々だったので、今年も参加したいなんて、ホントに虫のいい話のよぅな気もしますが、子どもたちのあの笑顔をまた見たいです。皆さんに会って、皆さんとまた語り合えたら、私も嬉しいです。」

 メールの中の「屋内でゲームやテレビの日々、子どもたち自身が放射能を気にして、草や土には触ろうとはしません」という、福島の子どもたちの現実には胸が痛む。ぼくも今年また協力しようと思う。

 昨日のソバ会で峰岸さんは、
       梅真白我も哀しき傍観者
と詠じ、原発だけではない、いじめ問題も体罰問題も、日常の周りのことでも我々は傍観者になってはいないか、とおっしゃられた、その胸の痛み。

 新聞の短歌「歌壇」にこんな歌が選ばれていた。

    <真理(サティヤ)>とうインドの言葉<諦>の字に伝えられたり<あきらむる>なり

 八尾市の水野一也さんの歌だった。
 現代語訳すれば、
 真理(サティヤ)というインドの言葉は諦の字に伝えられている。それは「あきらめる」ということである。
 ではこの歌、どういうことを言っているのだろう。「諦」という字を日本では「あきらめる、しかたがないとしてやめる」という意味で使う。けれども、「諦」の字はもともと「あきらかにする、つまびらかにする」、「まこと、真理、真相」の意味をもっていた。
 そこで調べてみた。「諦観(ていかん)」は、「入念に見ること。あきらめること」という意味だが、仏教で言う「諦観(たいかん)」は、明らかに真理を観察すること、とある。ぼくは知らなかった。辞書で調べながら考えた。「ほんとうはどうか」と考えることが、どうして「あきらめること」に通じていくのか。
 和語の「あきらかにする」と「あきらめる」とを並べれば、「あきら」が同じになっている。なぜこの両者が同じ部分を持っているのか、考えていてそうだったのかと気づいた。本当のことを詳しく知り、明らかにしていくと、悟りに近づいていく。本当のことを知れば、真理に基づいて生きることしか生きる道はないということになっていく。「あきらめる」ということは、邪念や煩悩を放棄するということ、それはすなわち真理に基づいて生きるということなのだ。間違った方向へむかうな、じたばたするな、観念しろ。それは、真理を求めることをあきらめるのではない。仏道にもとづく「諦」の意味、今朝の新聞に載っていた短歌が教えてくれた。