「桜を守る会」の新年会

 日曜夕方5時から、地元の公民館で「桜を守る会」の新年会があった。集まったのは8人の男たち、ぼく以外は、区長経験のある、根っからの土地の人ばかりだ。酒、ビールにおつまみ、野沢菜漬け、そこへ唐沢さんがソバを手打ちして持ってきてくれた。
 5時から始まった宴会は、酔うほどに議論が沸騰した。
 「桜を守る会」は一昨年できた。公民館の横を流れる新堀沿いにりっぱな桜並木がある。爛漫の満開期には、都会からもカメラを持った人がやってくる写真の名所だった。常念岳をバックに、桜の花が帯のように咲き匂う景色は安曇野のポスターにもなった。ところが人が集まるとマナーが問題になる。撮影するために田畑の中まで侵入する。ゴミを散らかす。何台もの駐停車が地元の人の車の通行を妨げ、道を譲らない人も出る。桜並木の東側の田の所有者にとっては、桜の木が陰となり稲の生育が悪くなっていた。これらが原因して、桜並木の清掃や草刈をしてきた世話人や地権者から苦情が出てきて数年に及び、とうとう桜並木は丸坊主に近い大剪定の決行となってしまった。桜は見る影もなく、爛漫の春は消えてしまった。ぼくはそれを、「桜の木の墓標」と表現して、区の総会で意見を述べた。そこに桜のある価値、桜を伐ることを決定した「迷惑な存在」という考え方、そして他に方法はなかったのかと、異論を述べたのだった。ぼくの意見に対して険しい反論があった。同時に支持意見もあった。村人の大勢は「仕方のなかったこと」というところにあったが、その総会での討論は、後に次の展開を生んだ。「桜を守る会」の発足だった。ぼくの意見に対して険しい反論をした人が会長になった。
 昨日の新年会、桜並木がやがて再び枝を伸ばし、花見が楽しめるときが来るだろう、そのときのために、道祖神をつくり、祀ってはどうかというアイデアが出た。これに対して賛否両論が出る。地権者の同意を得ることの難しさと将来それを祀っていくお世話が可能かという意見だった。桜の木の下にシバザクラを植えたらどうか、という意見も出された。やりとりは、宴会の席だったから結論はなし。
 ぼくは今思うことがある。道祖神を祀る、並木の下に花を植える、などの案の奥に、もうひとつ意味があるということだった。
 奈良の御所市に住んでいたとき、金剛山葛城山の間に水越峠があり、峠を越える旧道を葛城川沿いに上っていったことがあった。美しい沢道の途中においしい湧き水も出ていて、「祈りの滝」と呼ばれていた。ところが、不届き者はどこの世界にもいる。車に積んだゴミ、廃棄物をその谷に捨てに来る。谷底にいくつもの古タイヤ、壊れた冷蔵庫、テレビなどがうず高く、見るも無残な峠道になってしまっていたのだった。一箇所にゴミが捨てられると、どんどん同じところに捨てられる。感覚が鈍麻するのだ。「国のまほろば」は、どうなってしまったのだと、愕然とするばかりだった。ぼくは行政と警察に、対策を取るように文書を送ったが、何の動きもなかった。そのとき一つのヒントを与えてくれたものがあった。沢の下に小さな古い神社があった。その周辺にはゴミは捨てられることはなく、そこからいくらか上ったところに誰かが手づくりした木彫の野仏が道路ぎわに置かれ、その周辺もゴミが捨てられた痕跡がないことだった。聖なるものを感じると、人はそこを汚すことはできなくなる。清浄なるところ、聖なるところ、神やどるところ、それを感じる場所を、人は乱すことはできない。さすれば、桜並木をそのような場所にできないか。桜を守る奈良の吉野の人たちは、桜を神木と言っていた。
 観光地化すれば、やってくる人の迷惑行為も起こる。しかしその人たちに、もっと楽しみ、喜びを贈ることで、地元の人に幸せがもたらされる、そういう贈りあいの関係が生まれる安曇野にしていくことではないか、今朝そんなことを思った。
 さて、新年会はさらにたけなわを迎える。区長選挙の方法をめぐる大激論がはじまり、声が大きくなり、相手の名前は呼び捨て、口角泡を飛ばし、あわやけんかになるのでは、と思えるほど加熱してきた。これからこの区はどうなるのか、安曇野市はどうなる、5時から始まった新年会、とうとう9時になった。酔っ払ってろれつも回らない人も出てきた。もうここまで、ぼくは会長に提案し、新年会は幕となったが、ぼくが引き上げた後もまだ続いていた。実におもしろい人たちであるぞ。たまらん。