コミュニティの再生と住民の作る民主主義 <人災がやってくる>


「50年後の日本の人口は、8000万人になるというのですよ。5000万人、少なくなるのです。4割の減ですよ。10人が6人になるのです。」
 そういう割合で人口が減少していくとすると、25年後は人口が2割少なくなる計算になる。
 今月の18日に行なわれた安曇野市の新本庁舎建設説明会における、市長や財政課長の説明は、市の財政についての将来見通しは、「心配することはない、大丈夫です」と、具体的な数字もないままの楽観だった。1000億円に近づく市の負債を将来どのように返済していくのか、具体的な説明を求める質問は、時間切れという主催者の打ち切りでできなかった。
 数日後、市の財政課長に電話をしてみた。そして人口問題と市の借金の返済についてたずねてみた。すると、アバウトだけれども、返済期限があるから、毎年40億円余りを22年間、返していくということになるだろう、ということであった。
 人口10万人足らずのこの安曇野市の財政が、毎年40億の返済だ、うーんとうなってしまう。
 安曇野市から大企業も撤退している。25年後まで労働人口も減少していく。時代は大きく変化しているにもかかわらず。


 子どものころ住んでいた家の欄間に、これは何だろうと思う文字が彫られていた。
昔の硬貨の形をした円の真ん中に「口」があり、その上に「五」、右に「ふるとり」、左に「矢」、下に「あし」が彫られている。
母がある日、それをこう読むのだと教えてくれた。
「吾、唯、足ることを知れり。」
 われは、ただ、足りていることを知っている、という意味だった。
 足りているにもかかわらず、足りない足りないと、求め続ける生き方でいいのか。だから説明会のとき、ぼくは市長に、
「今まで使ってきたこの免震建築のりっぱな堀金庁舎の議場を壊さずに今後も使い続ければ、新たな庁舎に新しい議場をつくる必要はないではないか。その分、費用は助かるではないか。」
と発言したのだったが、市長は、議場や議員控室は市長、行政関係の部屋と同じ建物に集約したほうが効率的で便利だ、と軽くいなしてしまった。


 25日に、居住区の自治会総会が開かれた。
 新しい区長が決まり、今年度と次年度の活動と会計について審議がなされた。
 活動内容は、毎年変わらない。これまで新しい企画が審議されることはあまりなかった。そこで、住民の生活の場である自治会が、従来どおりのことをやるばかりで、いいのかという疑問を、提起することにした。
 日本は急激に変化している。世界も変化している。地方も変化から逃げることはできない。住民が参加していく居住区の自治会が、時代の変化を見過ごして、のほほんとしていたら、結局北海道の夕張市のようなことになってしまう。居住区の自治会のマンネリは、日本の民主主義を空洞化させるだろう。
 「こんなことをしてみたらどうだろう、こんなことをやりたい、という住民のアイデアが提案される自治会にしていくにはどうしたらいい、その受け皿の場はいったいどこなのか。」
 居住区の下からの民主主義が活性化されていないようでは、市政も国政も変わらない。
 地元自治会の活動が活発になるように、「こんなことを言っても実現しない」と、はなからあきらめるのではなく、突拍子もないことでも提案する、そして提案を受け止め討議する、そういう住民の動きが居住区のコミュニティをつくることにつながっていくのだ。ひとりひとりが参加してつくる小社会だ。
「絆が弱くなっているという意見が出ていました。一人暮らしの高齢者が増えています。私は、ご近所のその人の姿が見えないときや、洗濯物が干されない日が続いたときなど、どうしておられるか、大丈夫かなと思います。社会福祉協議会が提案している、隣組の見守りや交流活動のアイデアも、提案のままで何もしないでいいものか、実現するにはどうしたらいいのか、そういう話し合いが必要です。」

 新区長は、ぼくの提案を受けて、4月からの区の活動に意見を反映させたい、意見に同感すると熱く語られた。
「私も同じことを考えていたのです。全国でも孤立死のニュースがあります。次の評議員会で討議していきたいです。」


 この地区に、農産物の朝市ができないか。
 桜並木に付設していろんな樹木の茂る公園をつくれないか。
 エネルギーの自給はどうだ。
 子どもたちの遊ぶ自然の林と小川を取りもどしたい。
 高齢者の一人暮らし、二人暮らしを隣組で見守り、昔の井戸端会議を復活させよう。
 子ども会の活動を展開して、子ども社会をつくるのだ。
 日常生活の中に、贈り合い、譲り合いが生まれるシステムをつくろう。

 いろいろ頭に浮かぶ。
 一人では何もできない。やろうという人をつくるには、提案を出し、仲間を生み出すしかない。
 近い将来やってくる震災に備えることと、人災に備えることと、どちらも欠かせない。
 原発が爆発し、放射能が降り注ぐ事態に至ってしまった人災は、政府にも企業にも、国民にも、責任がある。結局人災がやってくるような事態を、自分たちが招いてしまったのだ。