お店の繁盛


    息子と孫が正月につくった雪ダルマが、こんなになってしまった。


 わが村に、何年か前に大型スーパーマーケットがどかんと建ち、近隣の客を集めてしまったから、近くの小型スーパーや小売店は軒並み客が少なくなり、つぶれる所も出た。逆に、その大型スーパーに集まってくる客をあてにして、隣近所に新たな店がオープンした。ソバ店、めがね店、人形店、薬店、医院と、次々できて、ちょっとした商業スペースになってきている。大型スーパーのなかには薬店があったけれども、すぐ向かい側に「とをしや」という薬局が店を出した。そこは薬剤師が常駐していて、病院の処方箋をもっていくと薬を処方してくれる。食料品もたくさん置いていて、結構安いから売れている。あちこちにチェーン店もある。
 ぼくは、この店の名前の由来に関心を持った。ウエストンの日本アルプス探検記を読んでいたとき、あれ、と思った。「とをしや」があるではないか。明治時代、ウエストンは日本アルプスの名付け親でもあり、初めてアルプスを歩きまわり、近代登山を日本にもたらした。ウエストンは糸魚川から松本まで全行程を歩いたこともある。大糸線はまだない。そのとき、「とをしや」という旅館があり、そこに泊まったという。「とをしや」という薬局の前身は旅館だった。
 ところで、この二つの薬店から100メートルほどのところに、またもや薬屋が開業した。「マツモトキヨシ」、これで三つだ。これらの店は広域農道沿いにある。広域農道は大型農道として作られたのだが、今では安曇野の中央を貫く幹線道路になっている。この幹線道路に沿って、旧三郷村、旧堀金村、旧穂高町のそれぞれに商業スペースができ、いずれも大型スーパーとかホームセンターが建てられ、その近くにも薬局がある。安曇野市域の大型農道沿いに7店、安曇野全市では25店もある。そこへもってきて薬店・ドラッグストアというのがある。少し不思議な感じもするが、それだけ薬の需要があるのだろう。
 庄野潤三のエッセイ集「庭の山の木」を読んでいたら、郡上八幡の話が出てきた。夏の夜、幾晩も踊り明かす、岐阜県のあの郡上踊りの町でのこと。町は踊りで盛り上がる。夜中の十二時、一時、二時は人でごったがえすから、夜明け方が踊るのにいちばんいいという、どえりゃあ町だ。11年前、日中技能者交流センターの日本語教師養成研修会に、この郡上八幡の人が参加していて、一週間の研修会が終わって最後の打ち上げパーティをやったとき、人のいい彼は、郡上踊りを参加者全員に教えてくれ、みんなで踊った。ぼくは先頭に立って踊りを覚えて踊ったものだから、郡上の男はたいへん喜んでくれた。「かわさき」「はるこま」という踊りを踊ったときの幸福感は今も忘れない。
 話をエッセイに戻す。庄野潤三は、八幡の町の商店のことに触れていた。八幡の町を歩くと、商店の多いことに気づく。何の店が多いか、歩いてみると、ある人は薬局が多いと言う。別の人は洋品店が多いと言う。電気屋が多いと言う人もいる。酒屋も多い。履物店も多い。庄野潤三は宿屋の主人に聞いてみると、散髪屋は28軒あります、と言う。そこで編纂されたばかりの郷土史を調べると、町の全戸数の23パーセントが商売に従事しているということを知った。4軒に1軒が商店だ。いったいこれで商売は成り立つのかと彼は思う。人口は年々減っているのにもかかわらず、商店が増えているとはどういうこっちゃと頭をひねる。その回答はない。彼にも不可思議だったのだろう。それにしても住民はみんなおおらかで、おっとりしていて、親切で、子どもたちは川に飛び込んで、ゆうぜんと遊んでいたことに彼は感激していた。もうけもうけと、ぎすぎすしていない生き方なんじゃないかと読者のぼくは思った。
 このエッセイは昭和38年に書かれていた。それから半世紀たつ。郡上踊りは今も盛んだ。踊りの期間は、宿泊施設はどこもかしこも超満員、では店はどうなっているだろう。知りたいもんだ。