チェルノブイリの子ども、フクシマの子ども

  NPO法人の「広河隆一 非核・平和写真展開催を支援する会」の機関紙第46号が年の暮れに届いた。そのことのために、日々尽力しておられる人たちがいる。感じるものがある。
 一面の記事には、「遠足をやめた先生がた」という見出しが付いていた。福島がそうだと思いながら記事を読んだ。

 「今年もこの機関紙をお読みくださりありがとうございました。
 3.11から1年9ヶ月が経ちました。‥‥
 今多くの方々が、フクシマの子どもたちに『のびのびと遊べる屋外』がないことに心を痛めておられます。
 私が初めてチェルノブイリ汚染地を訪れたとき、それは1994年ですが、汚染地ホイキニの幼稚園や小学校で、先生方から聞いた言葉は『遠足はやめました』でした。そのころ、子どもたちには、お外で遊ぶ体力がもうなくなっていたのです。
 それを証明するように、活発に動き回るはずの年齢の子どもたちが、屋内でぐったり、ごろごろしていました。
 それは悲しいとか、悲惨とかいう言葉では表せない、なんとも言えない情景でした。事故から8年が経過していました。
 この先、このような光景がフクシマで展開しないことを心から願います。」

 昔、学校で、若い女の先生がこんなことを言った。その先生に子どもが産まれ、幼児になっていた。
 「子どもって、いつも走っていますねえ。いつ見ても、走っているのですねえ」
 お母さん先生になって、自分の子どもを見ていて、発見したことだった。そう言われてみると、そうだなあ、と思った。成長するものの、生きるエネルギーがほとばしり出る子どもは、いつも何かに熱中し、次の行動にむかって走るように移っていく。
 その子どもたちが、屋内でぐったり、ごろごろしている。放射能を避けるために屋内避難からは月日が経っている。年月は次の症状を引き起こしていたのだ。
 「このような光景がフクシマで展開しないことを心から願います。」
 それは、願いというものではない。なにがなんでも、そうしなければならないことなのだ。そして第2、第3のフクシマが起こらないように、根絶の道、すなわち自然界の理にそう道に、日本は立ち返らねばならないのだ。政治が怪しくなっている。そして新しい年を迎える。第2、第3のフクシマへの道を、国民が選んだ政治家たちが歩みだすとしたら、国民が第2、第3のフクシマを招きよせることになる。
 この機関紙をいつも送ってくれるT.Hさんが、通信の中に記事を書いている。社会にとどける意見も組織なしにはなかなかかなわない。組織をつくることの難しさ、つくった組織を育てることの難しさがある。