安部敏一さんの歩いた自然<2>陸前高田

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             雪の犬小屋


阿部さんの「通信」のなかに陸前高田行きの記録がある。時は1995年3月。

「JR陸羽東線岩出山駅発午前7時57分に乗る。‥‥濡れ雪の降る寒い日である。小牛田駅の雪の積もったレールの上でハクセキレイが途方にくれているように見えた。スズメの群れが電柱の風下のわずかに見える枯れ草の中で何かついばんでいる。
気仙沼線、線路に竹が折れ曲がり、今それを取り除いていると、車内放送がある。豊里駅を一時間半遅れて発車する。本吉駅近く、雪の降り続く川べりにコサギが一羽立っている。
陸前高田駅に着く。気仙川のそばまで行ってみたいと歩き出す。川面にそって移動する小鳥、タヒバリのようである。名はタヒバリだが、セキレイの仲間だという。水に浮いているゴミの上にハクセキレイが止まり、何かついばんでいる。長いくちばしで、ひじょうに小さなものを食べている。海岸が近く、流れも緩やかである。
道路を横切ろうとしたら、一瞬ぐらっと来た。まもなくチャイムが聞こえ、放送があった。地震だったらしい。三陸地方沿岸には、ときどきこのような地震があるのだろうか。気仙川の見えるところまで行きたかったが、気味が悪いのでやめた。川原川大橋の下に、マガモカルガモが群れている。遠くに見えるのはウミネコのようである。キジバトが飛んでいく。陸前高田は気仙川が、気仙沼は大川が作った平地である。
陸前高田発15時23分の一関行きに乗る。竹駒駅近くの気仙川にコサギと水鳥が群れていた。昨年イチヤクソウを新月駅近く、大川をカワガラスが飛んでいる。折壁駅、ここのソメイヨシノに「天狗巣病」がいっぱいついていた。矢越駅、ツグミが虫を呑み込む。陸中門崎駅近く、列車の後尾より北上川を見る。」

阿部さんの住んでいた岩出山は、宮城県の北部、仙台から北に数十キロのところである。記録から17年後、東日本大震災の大津波は、陸前高田も飲みしつくした。
小学校の先生をしていた阿部さんは、当時山の開拓村の小学校分校に勤務していた。声楽も勉強し、合唱団にも所属していた阿部先生は、こんな文章を書いている。
毎朝駅から自転車を押して坂道をのぼって、学校へ通っていた。

「自転車を押して上っていく。発声練習をしながら上って行く。木霊(こだま)は、立ち木のある斜面が特にひびきが良い。木霊(やまびこ)はこんなものだと考えていたのだが‥‥先日神津善行氏の研究を聞いた。その後、世界文化遺産音楽会をテレビで見る。樹木は歌っていると神津氏は語る。このことを聞いて、こだまに特長のあるのに気がづいた。発声した声が、山の向こうに消えていくが、半音ほど高くなって消えていくのである。木々が声を受け止めて、手渡しするように声を運んでいくように思えるのである。
テレビで宇都宮市大谷石の地下洞の音楽会を報じていたが、音響はいいのだがずいぶん寒いらしい。林の中は冬も暖かい。樹液は寒中も凍ることはない。杉林のような常緑針葉樹の林は特に暖かい。また夏の涼しさはいうまでもない。こだまを感じながら、林の中で歌う喜びを思う。林間で小鳥がさえずるのも、きっと樹木の精霊と歌い交わしているのだと思う。」

阿部さんは、信州から飛騨に抜ける野麦街道の旧道をも歩いておられた。その記録は1998年の8月だった。野麦街道の記録は、そこで見つけた67種類の草の名がずらずらずらと並ぶ。続いて樹木20種類。よくもこれだけの植物を一つ一つ分類し、観察することができたものだ。
自然を愛し、自然から愛を受ける阿部先生は、教育という場でも、子ども一人ひとりの特徴を知り、一人ひとりを尊重する毎日を送っておられたのだろう。

岩出山通信」のあとがきにこんなことが書かれていた。

「一月のはじめ、陸前高田に出かけた。旧今泉街道を歩き、夜は高田松原にあるユースホステルに泊まった。夕食と朝食は宿のご主人と奥様と一緒というたいへんなおもてなしをいただいた。これまでずいぶん泊まり歩いたが、生涯の思い出となるだろう。
何かと出会いたいと思い、歩き続けてきた。植物、昆虫、野鳥、社、石碑、梵鐘、子どもたち、と様々である。人の住んでいる所があり、山道を越えるとまた人の住んでいる所に着く。‥‥
日本国民が日本の自然に眼を向けるような社会になるように努力したい。
長沢で、大滝根山で、矢作で、声をかけてくれた子どもたち、よく歩いてきなさったと声をかけてくれた平泉の方、コナラの根元がチェーンソーで樹皮を完全に切られ、更に念入りに鉈で削られていた山林の痛々しさ。低山帯の稜線部に捨てられていた大量の牛糞。山が削られ、土が売られ続けている。‥‥
東北の地に住みながらほとんど東北のことを知らない。東北は私にとって未知の国である。もっと東北の風土を、植生を、自然を学び、そこに住む人びとと触れ合いたい。」(2000年3月8日)