陸郷の山桜と夢農場

 「西の吉野、東の陸郷」と称して、一目千本の山桜の名所が安曇野のすぐ隣、池田町にあると聞いたのはこの春、各地の桜が話題になっているときだった。天下の桜の名所、大和の吉野山に比べるとは、よほどの桜の名所に違いない。しかし、安曇野に来て7年になるが、そんな話やニュースを聞いたこともなかったのはどうしてだろう。一目千本の山桜の名所が本当にあるのか、もしそうだったら桜が咲いたら行かなきゃ、と家内と話していた。地図で調べると、陸郷(りくごう)というところは、三地区に分かれていて、南陸郷が安曇野市明科、陸郷が池田町、北陸郷が生坂村に含まれている。行ってみて分かったことは、もともと三地区は陸郷村であった。陸郷村は、犀川の西岸沿いに、南北に長く伸びている山間の村だった。
 陸郷の桜は満開だと、家内が光城山の桜を見に行ったときに出会った人から聞いてきた。それなら行こうと、18日午後、相変わらず風の強い日だったが車で出かけた。
松本から長野市に通じる国道19号線を北に向かい、生坂村に入ると犀川を左に見ながら走った。下生野というところで川を渡り山間の道に入った。行く車も少なく、場所もはっきりしないままに、標識を頼りに山道を上り、まず「夢農場ラベンダー園」に行った。山に囲まれたすり鉢状の谷間に桜が咲いている。まだ若い桜の木で、奈良の吉野山の古木とは比べものにならない。陸郷の桜は、ここではなさそうだ。それでも「夢農場」を取り囲む山のあちこちを、桜は淡い白みがかったピンク色に山肌をぼかし、斜面を埋めるようにラベンダー畑が広がっている光景は、「夢農場」の名前のとおり、ここに将来生まれてくる花の楽園の夢を感じさせた。
 桜を見に来ている人たちはそんなに多くない。見わたすと30人ぐらいか、広いスペースのなかにぱらぱらといる。農場のお店では、やってくる人にハーブティーを振舞ってくれる。日本語教室の指導者仲間の姿を見つけた。声をかけると、夫と一緒に香港からやってきた友人家族を案内してきたとのことだった。
 お店の人に「陸郷の桜」は、どこなのか聞いてみると、「陸郷の桜仙境」と呼ばれるところがあり、そこへは「夢農場」から2.5キロ歩けば行ける、農場から見える北の尾根が「桜仙境」だと言った。車で行くには、西の峠を越えて山道をぐるっと北側に回らねばならない。
 行ってみることにした。道はヘアピンカーブの連続する九十九折(つづらおり)で道幅も狭い。幸い対向車がなく、迷うことなく「桜仙境」に着いた。尾根の上に古い2軒の民家と小さな公民館があり、桜のシーズンだけ出している食べ物の店をちょうど仕舞いかけているところだった。いちばんの眺めの位置から見下ろすと、「夢農場」の桜が南の尾根の腹を白とピンクに染めて眼下に見える。さらにその周囲の山々にも桜の木があり、なるほど、ここが一目千本かと合点した。山桜は、眼前の山肌もおおっていたが、ほとんど葉桜だった。数千本とも言われる山桜は、人が植えたものではなく、小鳥がさくらんぼを食べその糞に混じった種が芽を出したのだそうだ。
 「花はもう終わったのですか」
訊くと、店のおじさんが山桜を眺めながら、
 「今年は花があまり咲かなかったね。原因は鳥が食べたという人もいるが、開花の時期に雪が降ったから、気候の状況が原因だと思いますね。残念だけれど来年来てください」。
 こんな山の上に民家があり、公民館がある。今は住む人はいない。山腹の傾斜はかなりきつい。
 「ここに住んでいた人たちは何をしていたのですか」
とたずねると、
 「昔はここの住民は山肌を開いて農業をやっていたんですよ。お蚕さんも飼っていましたね」。
 その後人びとはここを去っていった、と一生懸命話してくれた。公民館だった建物の横に、小さな墓地があった。黒御影の小さな墓標に刻まれていた文字を読む。ここに住んでいたけれど、この地を離れた、今この墓に帰り、ここに眠ると。
 犀川に向かって下る帰り道、道端の傾斜地で畑をしている老夫婦がいた。何をしているのかと訊くと、
 「ジャガイモを植えているんです」
と言うや、間髪をいれず、
 「菜の花をもっていかんかね」
待っていたとばかりに声を投げてきた。
 「ありがとう、うれしい」
 家内が応えたときにはもう、男性は花の咲いた野沢菜をごっそり両手につかんでいた。自分たちは、ここで生まれてここで育った、小学校もこの地の学校に山道を走って通った。が、もうここに住めず今は松本に住んでいる、畑だけここにやりにくるんだという。
 廃村になってしまったのか、限界集落になっているのか、厳しい山村の現実を感じる。車の対向もできない狭い急坂、とてもここで暮らせそうにない居住環境だった。
菜の花もらってくれて、ありがとう、菜の花いただき、ありがとう、ぼくらは急傾斜の急カーブの細道をくねくねと犀川めざして下った。
 野沢菜の菜の花、家内は夕食のおひたしにしてくれた。やわらかく、甘味もあって、おいしかった。