日本語教室・伝言ゲーム


 ひきだしの中にもう10年も眠っていたジーンズのパンツが4着あった。このジーパンは大阪にいる広太郎君が少しはいていたもので、ぼくが10年前ボランティアで中国へ行くと聞いて、ダンボールに1箱、いろいろな衣類とともに送ってきてくれた。けれどそれを中国へ送って学生たちに使ってもらうことは中国の事情でできなかった。小ダンスのなかのジーパンをどうしたものかと思いつつ月日がたち、ついこの間、ひょっと思いついた。日本語教室に来ているベトナム人実習生の若者が使ってくれるかもしれない。彼らならサイズが合い、少し古い感じのジーパンを喜んでくれるかもしれない。
 日曜日夜の公民館の一室に、彼らはもう来ていた。21歳と22歳の二人は、ぼくがジーパンを袋から出すと、ぱっと顔が輝いた。
 「あげます、ウエスト合うかな?」
 二人はジーパンを広げて、ウエストを見ようとお腹に当てる。合いそうだ。喜ぶ二人の姿に、やっと広太郎君の想いがかなえられたと、ぼくも満足した。
 そこへ中国人女性三人が来て、続いてパラグアイのノブ君が新しい二人を連れてきた。来る予定だったスペインのマリオ君は来なかった。
 新しい二人が来たから、みんなで輪になって、自己紹介をすることにした。いつものような型どおりのやり方ではなく、自己紹介した人にみんなから質問を出すことにしましょうということで、にぎやかな自己紹介になった。今年日本に来たベトナム青年は質問の意味が分からなくて何回も立ち往生した。その度に、それ辞書を引けと促す。笑い声がはじけ、雰囲気が和やかにほどけた。和気藹々の、冗談も出る雰囲気づくりに貢献しているのは、ベトナムのトー君だった。彼の陽気で開放的な性格が笑いを誘う。中国人の王さんにトー君が質問する。
 「なんさいですか?」
 「23さいです」
 そんなことはない。もっと上だよ。
 「結婚していますか」
 「していません。独身です」
 またまた冗談。トー君はそこは分かって質問している。
 トー君へパラグアイのノブ君が質問した。
 「日本に来て、日本の料理食べましたか」
 「たべません」
 トー君は、カレーライスも食べたことがないと言った。
 「どうして つくりますか」
 中国人の董さんが、カレーに入れる材料を説明しだした。けれど、肝心のカレーの説明ができない。説明のしようがないので、「スーパーで売っていますよ」とごまかした。
中国人の王さんと董さんが、ゆで餃子とシャオロンポーを作って持ってきていた。寒さで冷えていたけれど、みんなはそれをつまんで口に入れる。
 「おいしい」
 二人はうれしそうだ。いつもこまめにお世話してくれる世話役のTさんがミカンを、今日二回目の指導に来てくれたOさんがお菓子を出してくれた。生徒たちがさっと動いてお茶を入れてくれた。何かいい歌をみんなで歌おうと思ったが、適当な歌が思い浮かばず、それならゲームだ。言語ゲームをしよう。
 「伝言ゲームします」
 初めに普通の伝言ゲームをして、次に物と一緒に言葉を伝えていく伝言ゲームを楽しむことにした。
 ぼくは消しゴムを隣の陳さんに渡し、耳に口を近づけて、こっそり言う。
 「この消しゴムで、顔をきれいにします」
 陳さんは、同じように隣の王さんに消しゴムを渡しながら、
 「この消しゴムで、顔をきれいにします」
 そう伝えたかどうかは分からない。
 少し間を置いてから、お菓子の一つを陳さんに渡し、
 「このお菓子は、たいへん高いお菓子です」
と伝言。その次は、シャープペンシルを手渡し、
 「このシャープペンシルで、たたくな」
 この意味、理解できるかな、と思いながらも、やってみた。
 こうして次々といくつかの物とセンテンスを伝えていく。聞き取れないからと、何度も聞き返す人、伝える人と伝えてもらう人の二人のちんぷんかんぷん対話、一人のところで、いくつもの物が停滞してアップアップ。あっちこっちで湧き起こる笑い。そしてやっとこさ9人をリレーしたいくつかの物と言葉がぼくのもとに返ってきた。
 「はい、わたしのところに返ってきた言葉を言います。消しゴムでは、『この消しゴムは顔にきれいにします』でした。ぼくの言ったのは『この消しゴムは顔をきれいにします』でした。『顔を』が正しいです。お菓子の伝言は、『このお菓子は、高くてたいへんです』、私が最初に言ったのは、『このお菓子は、たいへん高いお菓子です』でした。シャープペンシルでは、返ってきたのは『このシャープペンシルは高くない』でした。最初の言葉は『このシャープペンシルで、たたくな』です。」
 ぼくはシャープペンシルで頭をたたくかっこうをする。そういうことだったの?とやっと納得したのは陳さん。
 王さんがぼくに質問をした。
 「このゲームはどんな目的でしますか」
 「目的? 一つは仲良くなること、二つ目は、聴き取りの練習です」
 「聴解ですね。はい。分かった」

 午後9時、二時間が終わった。来週からは三つのグループに分かれて、それぞれのレベルで勉強することになる。

 みんなと分かれて車で帰る。ラジオのニュースが報じていた。
 「自民党が300議席に近づいています。圧勝の模様です。」
 選挙結果の報道だ。ニュースは迷妄の現実にぼくを引き戻すかのように聞こえてくる。