古い建具、古い建物

 巌さんの仕事場の外に処分するものが置いてある。そのなかに、建具の障子に使われてきた木枠が数枚ブロック塀に立てかけてあった。もし燃やすんだったら、ほしいと声をかけたら、トラックで運んであげますというから到着を待っているが、まだ来ない。こういう木枠は応用価値がある。アイデアこんこんと湧き出る木工細工にも使えるし、腐食が進んでいるのは薪ストーブ用に使える。
 朝の散歩で見つけたのが、ガラスの入ったサッシュだった。これは倒産した鉄工所の処分物置き場にあった。そこを借りて使っている若い大工さんに声をかけたら、どうぞどうぞ、ということで車で持ち帰った。これは、工房の外にくっつけて作った物置きの雨よけ窓に使える。ここには今干し柿を吊るし、薪ストーブの薪を積んでいる。
 安曇野太極拳を指導している飯島先生が工房を見に来られた。室内の上を見、周りを見まわし、ふーん、ふーんと、うなっておられる。
 「あれは穂高の診療所を改築した折に不要となったドアで。すべて二重窓になっている室内側の木の格子戸も全部リサイクルもので。あれは近所のサッシュ屋さんからもらい、こちらは近くの家のリフォームで処分しようと外に出されていたものです。頭の上に組まれた太い梁はご近所で家を建て替えられたとき業者がユンボで壊していた中からもらってきたもので。壁に貼り付けてある木の格子は農家の古い障子の紙をはがしたもので。‥‥」
とぼくが説明していくと、感心されることしきり。
 「これからこういう木の細工物は作る人もいなくなりますよ。こういうものが日本では廃棄物に出されるんですから。」
 日本はどうなるのか、という慨嘆がにじんでいた。
 ここ数日、ヘルマン・ヘッセの子ども時代をここにつづってきたが、ヘッセは子ども時代の暮らしについて、「郷愁」という作品のなかでこんなことを書いている。
 「私たちの小さい村ニミコンは湖にのぞみ、二つの山の突出部にはさまれた、三角形の斜面にある。ひとつの道は、近くの修道院に通じ、もうひとつの道は、四時間半も離れた隣村に通じている。湖畔のほかの村々へは、水路を行く。
 私たちの家は、古い木造建築で、年代ははっきりしない。新しい家が建てられるということは、ほとんどなく、古い小さな家がそのつど必要に応じて部分的に修理されるにすぎない。今年は床を、またの年は屋根の一部を、というぐあいである。以前は部屋の壁の一部にでもなっていた半げたや木舞が、いまは屋根のたるきになっているのがいくらも見られる。それがそういう役にはまったく立たないが、さりとて燃やしてしまうにはまだもったいないという場合には、そのつぎ、馬小屋か、ほし草小屋の床の修理に、あるいは玄関の戸の横のぬきに使われる。そこに住んでいる人たちも同様である。めいめいの力の及ぶあいだは、自分の役割を人なみに果たすが、やがてためらいながら、役に立たない人々の仲間にはいっていき、ついには、たいして人目にもつかないで、暗黒の中に沈んでしまう。長年異郷にいて私たちの村へ帰ってきたものも、数軒の屋根が新しくされ、比較的新しかった数軒の屋根が古くなったという以外、なんの変化も認めない。昔の老人はいなくなりはしたが、別な老人がちゃんといて、同じような小屋に住んで、同じような名を名のり、同じ黒い髪の子どもたちのおもりをしている。その間に死んでいった人たちと、ほとんど区別がつかない。」
 ヘッセはドイツに生まれ、後にスイスに住んだ。
 ヨーロッパの人々の暮らしは、総じて古いものを大切にし、それを使いこなし、質素ながら心豊かに生きようとする伝統は揺るがない。家のドアを古い年代物のドアに付け替え、傷やしみや汚れに、それを使ってきた人たちの人生がしみこんでいる家具や建具のもたらしてくれる精神の安らぎをこよなく愛している。日本が伝統の美と安らぎを、新しいものはいいものだ、便利な暮らしはいいものだ、と極端に崩壊させていったのは高度経済成長期からだった。先日テレビで、大阪の、江戸初期に建てられた古民家がつぶされたことを知った。文化財として指定されていながら、相続の税金が1億以上になるということが原因で、所有者は保存を断念し、更地にするために解体されてしまった。わらぶき屋根の貴重な家は、もう戻らない。行政がだめなら、どうしてナショナルトラスト運動のような、市民が残す運動にならなかったのか、それが日本なのかと思う。滅びゆく大和といわれたのは1970年ごろだった。安曇野も、いま「滅びゆく安曇野」になりかけている。