ヘルマン・ヘッセの「わたしの幼年時代」

朝のうちは、ときどき晴れ間も出た天気が、にわかにかきくもり吹雪になった。雪は横殴りに吹き付ける。今は、外仕事を休んで、名文をここに書き記そう。ヘルマン・ヘッセの「わたしの幼年時代」(高橋健二・訳)から一節。昨日書いたことの想いが継続していたから、これを記そうと思った。人間の幼少年時代の体験がどれほど心に残って、その人を作り、人生に生きつづけるかを考えるうえで、大きなヒントになる文章である。

「記憶の中でまずわたしの思いだすのは、自分の周囲、両親、わが家、わたしの育った町と風土の姿である。そのころ、わたしたちの住んでいた町はずれの、片側しか家並みのない、のびのびした日当たりのよい通りが、わたしの心にきざまれた。さらに、町のひときわ目立つ建物、市役所や大寺院やライン河の橋などが心にきざまれた。いちばん心に残ったのは、うちの裏から始まって、わたしの子どもの足にとっては限りなく広い草原だった。どんなに深い心の体験でも、どんな人間でも、両親のおもかげでさえも、無数のこまごましたもののあるこの草原ほど早く、わたしの心にはっきり映りはしなかったと思われる。その思い出は、人間の顔や、自分のなめた運命の思い出より古いように思われる。わたしははにかみがちなたちで、それには、医者や召使など他人の手にかってにさわられることに対する反感がもう早くから伴っていたが、幼児から野外にひとりでいることを喜んだのも、たぶんそれと関連がある。あのころしきりに幾時間も散歩したが、その目標は、いつもあの大きい草原の、およそ人の足跡の及んでいない緑の荒野だった。草の中のこの孤独な時は、思い出すと特にせつない幸福感でわたしを満たすものでもある。わたしたちは幼年時代の道を歩くごとに、たいていそういうせつない幸福感につきまとわれるものである。今も、あの平原の草のかおりが、ほのかな雲のように、わたしの頭にのぼってくる。そしてそれには、ほかのどんな時代も、ほかのどの草原も、あのようにすばらしいコバン草やチョウチョを、あんな肉づきのいい水草を、あんなに黄金色のタンポポを、ゆたかな色のセンノウを、サクラ草を、ツリガネ草を、マツムシ草を、つくりだすことはできないのだ、という確信がともなっている。あれほどしなやかなオオバコ、あれほど黄色に燃えるようなベンケイ草、あれほど魅惑的にきらきら光るトカゲやチョウチョを、もう二度と見たことがない。そして花やトカゲがその後いやなものに変わったのではなく、自分の心と目とが変わったのだという意識を、わたしの知性はただもの憂く、さして熱意もなく、主張している。
 それを考えると、わたしがその後、目で見、手でつかんだ貴重なもののすべてが、わたしの芸術さえもが、あの草原のみごとさに比べれば、とるに足りないように思われる。明るい朝、草の中に長々と寝て、頭を両手にのせ、太陽にちらちら光る、さざ波をたてる草の海を、見わたすことがあった。ケシの赤い島、ツリガネ草の青い島、タネツケバナの薄紫の島が、草の海に浮かんでいた。その上を、目のさめるように黄色いヤマキチョウや、ひよわそうなシジミチョウや、高価ないわば骨董品のように珍しい微光に輝いているコムラサキヒメアカタテハがひらひら飛び、わたしを魅了した。それから、重い羽を持ったキベリタテハ、気品があって野性のあるホタテアゲハやキアゲハ、黒と赤のオオアカアゲハ、恐れ敬いの心をもって呼んだ珍しいアポロウスバシロチョウが。――友だちの説明でわたしもすでに知っていたこのアポロウスバシロチョウが、ある日、わたしの方に飛んできて、近くの地面にとまり、雪花石膏のようなすばらしい羽をゆっくりと動かしたので、その美しい模様や、丸いふくらみや、ぴかぴか光るダイヤモンドの筋や、両方の羽にある二つの明るい血のような紋を見ることができた。この遠い時代の記憶で、これを見た時わたしのからだにしみわたった、息の詰まるような、胸のどきどきするような喜びほど、強く生き生きとわたしの記憶に残っているのは、少ない。‥‥
草原時代の緑の月日は、美しい、いつも同じように明るい、とぎれない夢のように、わたしの意識に中に残っているが、やわらかい輪郭の特別な輝きをもってきわだっている日が、幾日かある。そういう日をもっと思い出すことができたら、わたしは宝物をやることだって惜しまないだろう。」

さらに幼少年時代の思い出はつづいていく。
「人間は、その受くべきものを、幼少年時代にだけ、つまり、十三、四歳までに、十分に鋭く新鮮に体験する。彼は一生の間それを糧にしているのだ。」