歩いて峠を越え、旅をすることを現代人はしなくなった。車に乗って峠を越える旅人は、峠に着くと車から降り、景色を眺めていくばくかの感慨を胸に抱き、またさっさと車に乗って下っていく。
歩いて登っていた時代の人たちは、峠に着くとほっと安堵の一息、しばらく峠の天を見わたしながら、茶屋があればお茶を飲んで憩いの時を過ごしもした。
日本の近代登山の初期、昭和3年3月、前穂高北尾根で転落死した大島亮吉はそのとき、30歳だった。彼の遺稿集「山 ―随想―」に、「峠」というエッセイが収められている。
<峠ひとつを境にして、ここと向こうとの気候や風土のちがう時の、その峠越えはまた一種特別の情趣をもって私らを惹く。ことにそれが暗い国から明るい国へ、寒い土地から暖かい土地へと越してゆくときはなおさらだ。
「越路(こしじ)の人は、寒空に信濃へ連なる山々を見て、ああ、あちらは明るいと思うとか。彼らは誘われるように山を越えた」
というのは、これらの土地に住む人びとの心情を言い表したまことのものだと思う。>
大島亮吉は、東京生まれだったが、本籍の富山の八尾に幼少年時代住んでいた。富山は越の国、富山から見える剣岳、立山、薬師岳の向こうには、信濃の国がある。
大島は、峠越えの楽しさについて、気ままにさまよい歩くおもしろさとしていた。古の巡礼者は、旅をする態度においては「理想的な旅行者」で、まったくの自由な旅だった。
「彼らはあくまで旅というものの自由さと、そしてその辛労とを味わったのであった。アルプスの峠も彼らは越えた。われらは今日においてはこのようなわれらが古き旅人の姿をいずこにも見出すことはできないのだ。」
この一文は現代の文のように感じる。大正時代、「近代」はこの理想の自由を失っていると大島は考えていた。そこで大島の登山はそこへの回帰だった。
ドイツのバイエルンの森に囲まれた小村に住んでいた若者は、南西に雪光る山々を越えたその向こうの明るいイタリアの空を思い、ミニヨンの歌に知るオレンジの暗緑の葉かげにかがやき、大理石の円柱の空にそびえる殿堂のあるイタリアにあこがれて、旅に出たという気持ちに大島亮吉は共感した。スイスの詩人、マイエルのこんな詩を紹介している。
ベルニナの岩の門を
馬車はごろごろと通り過ぎた
そうして私どもは南の方に
貝山の聳え立っているのを見た、ちょうどその時
先の馬の上の革のズボンの男は
トテテテとラッパを吹いた――
「お前は誰にそのラッパで挨拶するのかね?」
「へえ、ラ・レーゼでさあ、お客様、ラ・レーゼでさあ!」
平らな屋根をもった円柱の家、
まず眼に入ったイタリアのすがた、
ラ・レーゼはぶどうのつるを身にまとって
とげとげした岩の荒地にバラと咲いている――
なんだかここの水はよそよりも
柔らかな音をして流れているよう
ラ・レーゼのバルコンは
遠くイタリアを見下ろしている。
私は北国人、またも南の国に
さまようことができる
あの私の岩の四つ壁を
この白い大理石の広間に代えて、ね、
こんにちは、イタリア、光り、よろこび!
私も運のいい男さね!
イタリアは私たちの地球のチョッキに着けた
バラだ、イタリア、バラだよ!
ラ・レーゼは、スイスからイタリア側へ、ベルニナを越すと最初に見えるというイタリアの小村。ベルニナは、スイス、イタリアの国境にあるアルプスの高峰、4049メートル。
峠は、山のピークとピークの間の鞍部にある。山を越えるいちばん低い部分に。
今多くの峠には、自動車道が造られ、人の歩いた峠越えの道は廃道のようになっている。車の通らない峠道が残っているならば、そこに今も古の峠の趣が残っているだろう。