われらはみんな渡来人


 

大阪市の中学校の教員をしていたとき、大阪に残っている地名と朝鮮からの渡来人について調べたことがあった。今も南百済小学校があり、百済川という川がある。川は別名平野川と言った。百済駅の名もJR関西線に存在する。加美には鞍作(くらつくり)という所がある。鞍作止利(くらつくりのとり)は、飛鳥時代に活躍した渡来人の仏師だった。法隆寺金堂の本尊、釈迦三尊像(623年)が代表作とされている。鞍作という地はその一族が住んでいたところなのか、1400年を経ても名は残り続けている。
 飛鳥の時代、日本へ技術や仏法を伝えた朝鮮の人たち、とりわけ百済人はたくさんいた。なにわの港に着いた人たちは、竹之内街道を歩いて、二上山を越え、明日香に向かった。日本最古の街道、竹之内街道の名は今も大阪の河内から大和に通じる道に残されている。
ぼくは大阪の河内で青年時代まで育った。家の裏には天皇陵があり、近在にはいたるところに古墳があった。高校生時代に考古学のサークルに入り考古学者と一緒に古墳の発掘もしたことがある。後に大学教授となった北野耕平氏に会ったとき、こんなことを彼は言った。
「河内のいたるところ、渡来人が住んでいたんです。私もその子孫ですよ。」
二上山から葛城山金剛山山麓、石川の流域には、渡来人が住んで日本に文化を伝えた。その子孫が今この地では日本人として暮らしている。
7年前まで5年間住んだ、奈良県御所市は明日香村の隣にある。古代、葛城族がこの地に住んでいた。その地にも、百済からの渡来人はたくさん住んで、今に子孫を残し、日本人になっていることだろう。

信州に「渡来人倶楽部」というのがあることを今朝の新聞で知った。松本市に住んでいる、李春浩という人が、こんなことを書いていた。
「日本には有史以来、多くの人が大陸から渡来してきました。時には新天地を求め、生活の糧を求めての渡来であり、為政者による強制渡来もありました。ある考古学者の説では、現在の日本人の70〜80パーセントが、渡来系の先祖を持つ民であると言われています。
在日韓国人二世である私は、9年前、日本人の仲間とともに、信州渡来人倶楽部を立ち上げました。『私たちは、みな渡来人。なのに、知らないことがあまりに多い。日本と朝鮮半島の歴史文化を学び、違いを認め合い、慈しみ、尊重する人間関係を形成したい』と考えました。
この想いを広く伝えるために、毎年、松本で渡来人まつりを開いています。論・芸・食・繋・健の五つをテーマに、政治学者の姜尚中(カンサンジュン)さんらの講演、朝鮮半島から渡ってきたとされる県宝の金銅製天冠の展示、韓国伝統楽器の演奏、信大の和っしょいの演舞など内容は盛りだくさんです。世話人には、日本人、民団系コリアン、総連系コリアン、ニューカーマー(1980年代以後、日本に定住する外国人)と呼ばれる韓国人一世の四者が集まり、打ち合わせしています。
私たちはみな渡来人、という認識を、多くの人と共有することが21世紀を生きるものとして大切だと考えています。私たち民衆が、忌憚なく語り合い、学び、協働してこそ、世の中は少しずつ変わっていくでしょう。」
こういう会があったのだ。信大の「和っしょい」というのはどういうものか知らない。以前、祭りなどで使われる囃子言葉「わっしょい」は韓国語の「ワッソー」が語源ではないかという説があった。「奈良」の「ナラ」も、朝鮮語の「国」の意味をもつ「ナラ」が語源ではないかという説。金達寿(キムダルス)の著書にあった。小説家だった彼は、「日本古代史は、朝鮮との関係史である」と、「日本の中の朝鮮文化」を研究した。「帰化人」に代わる「渡来人」の呼称を提唱した歴史学者上田正昭に賛同し、日本にやってきて文化を伝えた高句麗人・百済人・新羅人等の存在を「渡来人」とした。

安曇野も朝鮮と関係が深い。安曇族は、古代日本の海人族で、発祥地は筑前国糟屋郡阿曇郷(福岡市)とされる。安曇族は、中国や朝鮮半島と交易をした。その一部の人が、日本海から川伝いに安曇野に移り住んだのだろうか。穂高神社は安曇氏の祖神を祀っている。海神である。内陸にあるにもかかわらず例大祭は、大きな船形の山車が登場する。

山の国の歴史も、たどっていけば、アジアの人々の祖先につながる。