カウンセリングの力



日本精神療法学会の松本文男氏の講演を聴いた。
250人ほどの参加者の最前列にぼくは座って、一言も聞き逃すまいと思った。メモを取りながら聴く話は、36年間に及ぶ氏のカウンセリング体験が元になっている。先生は、カウンセリングを受けに来た人たちの、すさまじい精神の傷を語り、傷の上に傷をつけ、さらに塩を塗るような現代の人間社会の不条理を説き、悲しみと嘆きと絶望の淵から立ち上がる勇気の源泉を、傷ついた人の心に呼び覚ます講話であった。
 話は、日本の競争社会の実態から始まった。日本人にとっては当たり前になっている進学塾、学習塾、予備校などは、ヨーロッパの人から見ると、異常に多い。ドイツの友人は、ドイツの10倍はあると言う。これは日本が競争社会であることを現している。子どもだけではない。大人社会でも、会社の中にそれは進行している。この競争社会の激化が精神の傷を生んでいる。子どものいじめ問題、大人の心身症の増加はその現われである。最近は韓国の競争社会も激化している。カウンセリングを受けに、韓国や中国からも最近やってくる人も現われているという。
 そこで先生は一つのいじめの事例を紹介された。
「この本のここを読んでください」
 いちばん前列に座っている女性に一冊の先生の著書を渡された。女性が読んだのは「心のカルテ」(ほおずき書房)にあった記事だった。
 一人の中学三年生から、SOSの手紙が先生に届いた。内容は衝撃的だった。12人の級友からタバコの火を背中に押しつけられ、60万円に達する金額を数回にわたってかつあげされ、キックボクシングや空手の練習台にされ、きわめつきは小便、大便まで口に入れられたという。それを知った看護師の叔母は、学校、警察、教育委員会などに知らせ、止めさせようとするが、暴力は止まらず、むしろエスカレートするばかりだった。叔母は最後の手段として、松本氏へのSOSの手紙を書かせた。
 手紙を読んだ松本氏の対応は速かった。
 先生は、自分の講演会を取りやめ、その中学校へ行き、校長に話し、校長と共に加害者の生徒の家に家庭訪問して、いじめをしてきた12人の子ら全員の4日間の合宿を決行したのだった。そしてその費用は、親や学校に負担をかけなかった。
 12人の生徒たちは胸のうちを吐き出した。学校教師の行なう差別に対する怒り、親の暴力、それらを生徒たちは悲痛などなり声で松本先生にぶつけた。それは初日の夜を徹してつづき、二日目も子どもたちは叫び続けた。三日目、一方的に聞いていた松本先生はサイコドラマを行なう。一人がいじめられっこになり、ほかの子らは今までやってきたいじめを再現する。そこでいじめられる側の怖さを感じさせるのだ。午後は、空の椅子を置いてそれに向かっていじめる言葉を生徒に吐き出させ、つづけて空の椅子にその子が座って先のいじめの言葉に応える。エンプティーチェアという方法だそうだ。それを繰り返していくと、いじめられる側の椅子に座った生徒が言葉が無くなり泣き出した。いじめられる立場に身を置く体験をとおして、彼らはいじめられることの恐ろしさ、みじめさ、悲しみを感じたのだった。そして4日目になって、生徒たちにパーソナリティのチェンジが現れてくる。これから自分はどうすべきか、何をすべきか、自分の生き方を生徒たちは考え始めたのだ。
 女性が読んだ本はそういう内容だった。
 松本氏は講演の中でこう語った。人間は経験的存在であり、いじめっこは、わが身にそれを経験しなければ変わらない。指導と呼ぶ説諭や、叱責や、罰で人は変わらない。いじめっ子の精神も変えていかない限りいじめはなくならない。
 ここから松本先生は、脳の仕組みについて語り始めた。自己実現欲求をつかさどる前頭連合野、命を保つ自律神経をつかさどる扁桃体と、専門的な話が進む。カウンセリングがなぜ人を変え、生きる意欲を生み出すか、教師も親も学ばなければならない脳科学の世界だった。
 人は人によって変わる。その人の置かれている状況が、自由を束縛し、精神の抑圧と競争の世界であれば、緊張が脳を萎縮させ、心身症を引き起こす。いじめっ子も抑圧と競争の世界から生まれ、いじめられる子の精神を破壊する。精神を破壊され、脳が萎縮している人に、理性とか知性とか言ってもそれは不可能なのだ。
 人は、自分の感情を確実に受け止められたとき、理性、知性の働きが動き出す、そうしていかに生きるべきか、生きる方法を見つけ出す。理性、知性が働かないような、抑圧された状態に置かれた人の置かれている環境を変えないで、その人の理性や知性に訴えても、理性や知性は活発にはならない。学校でも企業でも、あまりにも心身症を誘発する状況が多すぎる。おおらかさ、温かさ、いいかげんさ、それが人間には必要である。
 松本先生は、この36年間で診てきた、心身に障害を持つ人のデータを公表している。

不登校 1025 うち完治1001
心身症 588 うち完治560
暴力行為・いじめっ子 285 うち完治278
無気力・いじめられっ子・逃避 265 うち完治240
情緒不安定(過敏症) 175 うち完治169
小児ぜんそく 168 うち完治157
夜尿症 149 うち完治129
学校かん黙 95 うち完治92
窃盗癖 83 うち完治73
自殺未遂 54 うち完治53  
以下省略

 この講演会は、安曇野市の教職員組合が主催団体だった。組合員である教員の熱心な依頼に松本先生は応えて、講演を引き受けたとのことであった。後援は、安曇野市PTA連合会である。