ふたたび「大笑いしなさい」

このブログの2009年10月30日、「大声で笑いなさい」と書いた記事にコメントをいただいたから、自分はどんなことを書いたのかなと、その日を出してみた。そうしたら柳田國男の「存分に笑うのがいい」という記事だった。
柳田國男の意見というのは、
「子供がうっかりウソをついた場合、すぐ叱ることは有害である。そうかと言って信じた顔をするのもよくない。又興ざめた心持を示すのもどうかと思う。やはり自分の自然の感情のままに、存分に笑うのがよいかと考えられる。そうすると彼等は次第に人を楽しませる愉快を感じて、末々明るい元気のよい、又想像力の豊かな文筆家になるかも知れぬからである。」(「ウソと子供」)
民俗学者柳田国男が書いているこの文章に出会ったとき、そのとおりだと共感し、そこからいろいろ考えた。

ウソにもいろいろある。大人の目から見ればウソかもしれないが、子どもの心のなかでは真実というのもある。ぼくが現役の中学教員だった時代、すごい実践力をもった佐々木という先輩教師が、「ぼくは生徒が少々悪いことをしても、問題行動を起こしても叱らない。けれどウソをついたら叱る」と言っていたことを記憶する。常に子どもの心を知ろうとし、子どもにかかわりつづけた人だった。彼がそういう規準をもっていたのは、「まちがったことをしたり、ずるいことをしたり、なまけたりしても、それには理由があり、その理由をごまかさずに、ウソをつかずに、自分に何でもしゃべってくれ」、という思いから出た言葉だったのだと思う。
教師の場合も、親の場合も、この子の言っているのはウソだろうと感じると、本当のことを言わせようとせんさくし、脅し、叱ることが多い。その結果、子どもの心を抑圧してしまう。ウソをついたという意識を持っていない、しかしウソをついたかもしれないと思えるものが残っている。そのようなことになっているのは、子どもの心の中に何かがあるからで、それを想像し、感じ取ろうとする教師や親が、子どもの心を育てる。だから「どうして?」と聴く、考える。
あのブログで、ぼくはこう書いた。

柳田国男は、存分に笑うといいと言う。
いや、これは豪快な考えだ。
実際それを実行していたとしたら、心がでっかい。
こういう笑いは、「笑い飛ばす」笑いだ。
大笑いして、子どものウソを飛ばしてしまう。
ウソを見抜いて、
ウソをを陽気に笑い飛ばしてしまう。
そうされたら子どもは、
親の大きさ、広さ、明るさを感じることだろう。
寛容な人間は、寛容な親から生まれるとも言える。
「自分の自然の感情のままに、存分に笑うのがよい」
計算してそうするとか、そうするのがいいと言うからそうする、とかではない。
自然の感情がそうさせる。
親の愛情から出てくる自然な感情だ。
自然な親の愛情から、
大笑いして、笑い飛ばしもすれば、たまには爆弾を落としもする。
子どものウソに悲しい思いをすることもあるだろう。それでいいではないか。
しかし笑い飛ばせるような、おおらかな親でありたい。
寸分の隙間も見せない親では、子どもは縛られて育たない。
小さく縮こまってしまう。
子どものウソを笑い飛ばす親には、ずるい考えは生まれてこないだろう。
子どももまた笑いあうおおらなか子どもに育つ。
京都大学の数学者だった森毅は、
子どもを面白がることができない教師は、教師をやめなさいと言った。
型にはまらない、おもしろい個性の子どもを、おもしろがる、
「面白がる心」、教師のそれに子どもは反応する。
子どもは面白い、そう感じない親は、子育てができない。>


「どあい子ども冒険クラブ」の子どもたちの一日に、幼児を参加させ、自分もそこで子どもを見守った親たちがいた。その母や父は、まったくそこに親がいるということを感じさせない存在、まるで黒子のような存在で、子どもたちを見守っていた。声を発することはあったが、その声も自然の空気の中で溶けていた。危険を感じたときだけ親は子どもの前に姿を現した。それ以外は、自分も自然を満喫しながらのんびりとし、わが子の冒険を楽しんでいた。おもしろがっていた。だから、子どもたちは、一日太陽の下、森の木々に包まれた自然の子になった。
叱るということ、さらに怒るということ、不満を持つということ、その方向に感情が走るとき、教師も親も、子どもを育てる機能を失うことがしばしばある。
「arigato3939」さんは、こんなコメントを書いてくれた。

<おもしろいですねえ。吉田資料庫(このブログのこと)で「民俗学」を検索していたらこの記事にたどりつきましたが、書いてあることがちょうど今のわたしにぴったりで。金曜日、帰りの会で時間があまったので、ひさしぶりに身の回りの整頓をしようや、とクラスの子に声をかけてみました。すると、机の中から、以前のプリントやらおたよりやら、落書きを書き散らした紙やら折り紙やら、ガサガサと出てきた子がいました。瞬間、叱るのを通り越して、思わず大笑いしてしまいました。すると、その子もてっきり怒られると思ったのが、そうでなかったので笑いだし、クラス中がなんだなんだ、と寄ってきて、みんなで大笑いしました。そのあと、何も言わないでも、懸命に整理していました。わたしは、「きれいになったか」とあとでもう一度、聞いたのですが、何も注意しなくても、これからはきれいにするだろな、となぜか思ったのでした。>

これぞ「大笑いする教師」の醍醐味。こういう子どもを愛し、子どもから愛される先生の教室は、快活な能動的な空気に充たされていくことだろう。いたずらしてもよし、失敗してもよし、大笑いして、相手のことも自分のことも考える子どもたちに育っていくことでだろう。大笑いしなさい。大笑いする教師、大笑いできる親、大歓迎。