「子供がうっかりウソをついた場合、
すぐ叱ることは有害である。
そうかと言って信じた顔をするのもよくない。
又興ざめた心持を示すのもどうかと思う。
やはり自分の自然の感情のままに、
存分に笑うのがよいかと考えられる。
そうすると彼等は次第に人を楽しませる愉快を感じて、
末々明るい元気のよい、
又想像力の豊かな文筆家になるかも知れぬからである。」
(「ウソと子供」)
民俗学者の柳田国男が書いているこの文章に出会って、
動いていた足がぴたと止まって、考えた。
ウソにもいろいろあるし、
動機もさまざまある。
事実関係ではウソかもしれないが、子どもの心ではその意識はなく、意識では真実というのもある。
「ウソをついたら叱ること」という杓子定規は、
危険でもある。
ウソをついた子どもの心理を、叱る行為が抑圧してしまう。
まずウソをついた子どもの心の中を想像してみることが大切で、
「どうして?」と聴くことも必要だ。
柳田国男は、存分に笑うといいと言う。
いや、これは豪快な考えだ。
実際それを実行していたとしたら、心がでっかい。
こういう笑いは、「笑い飛ばす」笑いだ。
大笑いして、子どものウソを飛ばしてしまう。
ウソを見抜いて、
ウソをを陽気に笑い飛ばしてしまう。
そうされたら子どもは、
親の大きさ、広さ、明るさを感じることだろう。
寛容な人間は、寛容な親から生まれるとも言える。
「自分の自然の感情のままに、
存分に笑うのがよい」
計算してそうするとか、
そうするのがいいと言うからそうする、とかではない。
自然の感情がそうさせる。
親の愛情から出てくる自然な感情だ。
自然な親の愛情から、
大笑いして、笑い飛ばしもすれば、
たまには爆弾を落としもする。
子どものウソに悲しい思いをすることもあるだろう。
それでいいではないか。
しかし笑い飛ばせるような、おおらかな親でありたい。
寸分の隙間も見せない親では、子どもは縛られて育たない。
小さく縮こまってしまう。
子どものウソを笑い飛ばす親には、ずるい考えは生まれてこないだろう。
子どももまた笑いあうおおらなか子どもに育つ。
数学者の森毅は、
子どもを面白がることができない教師は、教師をやめなさいと言った。
型にはまらない、おもしろい個性の子どもを、おもしろがる、
「面白がる心」
教師のそれに子どもは反応する。
子どもは面白い、
そう感じない親は、
子育てができない。