修学旅行のこづかい


       指導というもの



新聞の「声」の欄に、ひとりのお母さんの投書が載っていた。
中学校の決めた「修学旅行のこづかいの上限は1万2千円」に驚き、
「2泊3日の旅行に1万円を超える小遣いを持たせていいのか」、
と悩む。
が、修学旅行中に子どもたちがグループ行動をしたとき、
自分のこづかいが、みんなより少なかったら「複雑な問題も出てくるだろう」
と、結局1万円を持たせた。


「修学旅行のこづかい銭は、1万2千円以内です」、
と、中学校から子どもや親に知らせる。
これを子どもや親はどう受け止めるか。
「こづかいは1万2千円だから、ちょうだい。」
子どもは親に言う。
「以内」という言葉がどこかへ飛んでいって、
「1万2千円」が「みんなが持っていく金額」になってしまう。
「1万2千円か、ぼくは2万円持っていこう。」
この「きまり」は「きまり」ではなく、目安としてしか受け止めない中学生は、金額をエスカレートさせる。
高校生なら自主性に任せるしかない。
小学生でも、今はかなりのこづかいを持っていっているだろう。
だが、経済的に苦しい家庭では、頭がいたい。
親は、無理をしてでも1万円を用意する。
それもできない家庭では、今出せる金額をもたせてやる。
そのとき親がきちんと子どもと話をして、子どもが納得するようにしてやることが大切だと思う。


そこで言いたいのは、担任の教師の役割。
担任の教師は、事前にこの問題をどう指導するか。
指導もなしに、ただ「規則」だとして通達するだけなら、教育の放棄だ。
たとえば、ぼくはこんなふうな話をした。


「1万2千円以内」の「以内」はどういうことですか?
1万円でもいいし、5千円でもいい、
千円でもいい、ゼロでもいいということですよ。
お金を使う旅行でなく、お金を使わない旅行にする人がいてもいいと思うよ。
修学旅行のお土産に、何がいいと思う?
何がいちばん想い出になると思う?
何が記念になると思う?
高校野球甲子園球場に出場し、負けたチームの選手たちが、泣きながら甲子園の土をひとにぎり持って帰る姿を見たことある?
この土は、自分たちの熱い試合そのもの、汗と涙の結晶そのものなんだね。
お金で買えないよ。
ぼくはね、その土地の石ころだって、記念になると思うよ。
旅行地で見つけた石ころ、
咲いていた草花を押し花にしてお土産に持って帰る。
山のおいしい湧き水を水筒に入れて、お父さんお母さんのお土産にすることもできるし‥‥。
これは最高だね。
スケッチブックに絵を描いてくるというのもあるね。
だから、旅行先のいろんな自然、風物、文化遺産などを、よーく観察することだと思うね。
みんながみんな同じように、どこかで作られた土産品を買う、
そんなことないでしょ。
アメリカでお土産を買って、帰って見たら、日本製であったり、
その土地のものだと思って買ったら、中国製であったり、
今はどこへ行っても同じようなお土産があるからね。
これから行く目的地について、しっかり研究して、
その地でなければ手に入らないものとか、
その土地の個性豊かなものをお土産にすることが、後々にはいちばんの想い出になるんだよ。


そしてぼくは旅行中では生徒たちと思い切り遊び、
歌い、笑い、自然や民俗を観察し、対話して楽しむ。
実際に「千円しか使わなかった」
と言った子がいた。
それだけしか持って来れなかった子だったが、
そのことを隠さずに言えたということは、
千円のこづかいに引け目を持たず、むしろ誇りを持っていたからだろう。
その心がいとしい。


その先生がやれる内容や方法を見つけ出して指導する、そこに教育が成立してくる。
規則を守らせることに神経をとがらせ、目を光らせる旅行では、価値がなくなる。
あげくのはては、修学旅行が済めば、疲労困憊。
生徒同士の間にも、教師と生徒の間にも、温かい心の交流が生まれ、友情が育まれ、
それがその後の学級づくりに生きてくる、
それを念頭において修学旅行を実施していくことだと思う。
ひとつの指導にも、
そのものが含み持っている内容・奥行きがあり、
過程があり、
それらを探り出していかねばならない。
だから構想が必要になる。
食事を買ってきて、ぽいと与えるような指導で何が生まれるか。
一事が万事である。