いじめ自殺について思うこと(4)


 行きすぎた「いたずら」は、親や地域の大人から大目玉を食らうが、「いたずら」好きのワンパクたちは、それでもこりずに「いたずら」をする。
 学校の「いたずら」の古典は、起立して発表している子のいすを、後ろの子が下げる。座ったとたんに、椅子がないから尻もちをつく。みんな大笑い。これは怪我の危険があるから今では禁止。友だちの肩に手をかけて話しかけながら、背中に紙をはりつける。紙に「私はゴリラです」と書いてある。爆笑。次の国語の授業は3年B組だと、ぼくは準備して教室に向かった。教室に入ると珍しく全員座って教科書もノートもきちんとそろえてある。ひょいと見ると、みんな英語の教科書とノートだ。生徒が言う、「先生、次の時間は英語です」、「あれ? そうかあ、おかしいなあ」、ぼくは職員室に戻って時間割を見るとまちがいなく3Bの授業だ。いっぱいくわされたかあ、また教室の戻ったら、今度は全員国語の本を出している。笑いの渦。
 最近聞いた話で、クラスのなかのある生徒が「いじめ」にあっているという。その子だけが、靴を隠されたり、筆箱をどこかへもっていかれたりする。その子にとっては、自分だけがやられるので、精神的にこたえており、「いじめ」だとその子は思っている。やっている本人は、「遊びの延長のいたずら」と思っていても、やられている子にとっては「いじめ」になっている。この行為の結末には笑いがない。「いたずら」は、「悪戯」と書かれる。すなわち悪い戯れ。「いたずら」には、ふざける、いっぱいくわせる、形を破壊する、笑いを呼び起こすなどの要素が含まれている。生徒が教師を驚かすのは、生徒にとっては愉快の極みである。特に謹厳な人だったり、うるさい人だったりすると、その鼻っ柱をへし折るのはおもしろい。権力への挑戦にもなる。ぼくは、軍隊帰りの教師が昼弁当を食べているときに、その先生の机の上にゴム製のクモのおもちゃをぽんと投げて置いたことがある。その先生、驚いたのなんの、ぎゃあーと叫んで飛び上がった。そんなに驚くとは思わなかったから、ぼくはひらあやまりだった。
 「いたずら」が限度を越すと、相手を傷つける。特定の子をねらいうちして、自分たちでそれを楽しむというのは、嗜虐である。
 
 「死ね」「殺せ」とかの言葉が、子どもの中で使われるようになったのは、ぼくの体験ではやはりツッパリや暴走が始まる1980年代だった。それまで学校の中でその言葉は聞かれることはなかった。こういう直接的な言葉は日常生活で使えるものではない。それが子どもの世界に現れたことはショックだった。今それは、ケイタイなどを通して、ひそかに人を攻撃する。
 養老氏は、ケイタイを使って「死ね」と書くのはいじめだ、これは「呪い(のろい)」の言葉だと言っている。今ネットには、呪いの言葉が満ちている。言葉には、呪いの言葉もあれば、寿ぎ(ことほぎ)の言葉もあるが、今、ネットの世界では寿ぎの言葉がどんどん消えている。子どもの生活が、学校と家庭の両極になり、地域が消滅した。学校の友だちとの関係が生活の7,8割になって、家庭の親との関係はまったく希薄になった。そこで、呪いの言葉がはかれ、阻害され、いじめ行為がひそかに行なわれるとなると、これはこたえる。
 養老氏は、子どもの世界に、自然の世界が消えてしまったことを指摘している。人間が生きて暮らしていくうえでは、自然とのかかわりが欠かせない。私たちは、自然のなかにどっぷりとつかって存在している。この日本で直面している自然災害は、自然の猛威がたちどころに生存を脅かすことを毎日毎日教えてくれている。ところが子どもの日常生活が、自然から遊離するような構造システムになっていて、学校から帰ってきた子どもたちはどういう生活を送っているか。
 学校で「いじめ」の行為があっても、子どもの生活に地域の友がいて、地域の自然があれば、学校で受けた打撃は致命傷にはならない。今はそれが学校というハコと家庭というハコの二つになり、子どもによっては塾などのハコがプラスされているだけである。子どもたちで自由な天地の中に遊び、憩い、冒険し、創造する、それらが解体された文明は恐ろしい結末を生むだろう。