火を焚く

長い柄のついた斧を振り上げて打ち下ろす。薪にする楢の木の丸太は真っ二つに割れた。丸太の中に節のあるのは、斧を力いっぱい打ち下ろしても、いっかな割れず、斧の刃は木に食い込んだまま離れない。そこで斧に代わって、くさびを使う。くさびを割れ目に入れて、叩き割る。今年はストーブに使う薪の量が多くなりそうだ。
楢の木は、ログビルダーの慶太君が伐採してしばらく転がしておいたのを、枝を払ってトラックに積んで持ってきてくれた。その2本を、ぼくが手挽きののこぎりで切っていると、見かねたご近所のHさんの息子さんが、チェーンソーで輪切りしてくれたのだった。
薪ストーブに囲炉裏、キャンプの焚き火も、こよなく人をひきつける。ひとり火を炊くときは、炎を見つめて、はるけき人へ思いが飛ぶ。
若き日、春の御嶽山にひとりで登った。雪の中をたどりついた五合目の山小屋は屋根まで雪が積もっていた。入り口はどこかと探すと、雪のトンネルが開いていて、もぐりこんだところが小屋の入り口だった。中に入る。無人の小屋の中に、薪ストーブがあった。ぼくはそれに火をいれ、簡単な食事をして暖を取る。たったひとりの山小屋、ぼくは火を見つめて歌を歌った。大声を出して次々と浮かんでくる歌を歌った。歌い疲れると、火のそばでごろりと横になって眠った。
戦争終結から29年目の1974年2月20日、鈴木青年はジャングルをのぞむ草原でたった一人火を焚いていた。フィリピンのルバング島、テントを張って毎晩火を焚く。そうして日本兵小野田寛郎の現れるのを待った。そこにいるのは一人の日本の青年。何日目か、ひきつけられるように小野田が姿を現わす。小野田の警戒心は解かれていた。鈴木は日本が敗北したことを伝え帰国を促す。小野田の救出はこうして実現した。一人の男が火を焚いている、それが人を引き寄せる。
串田孫一が、「山の断想」にエッセイを書いていた。
「私はひとりで薪を燃やしていた。太いブナの薪で、燃えつけば容易なことでは消えない代わりに、どんどん燃えさかることもない。背中が冷えてくるし、ぽつんとしているのが変に具合もわるくて、もっと炎を明るく、顔が赤くほてってくるようにしたかった‥‥。私は遠い他国へ来ている気持ちになって、シベリヤの冬を考えてみたり、カナダの田舎を想ってみたりする。そのとき私は十四歳になってわずかしかたっていなかったが、どういう加減か老人の心持が分かってくるようだった。誰から見離されたのでもなく、ただ自分から一人だけの居場所を見つけて、こうして火をいじりながら冬の夜を過ごしている老人が、この地上にはどのくらいいるか知れない。彼らはそれほど疲れているわけではないが、その一種の宿命的な、自ら選ばざるを得なくなった悲しみをこらえながら、なかばそれに慣れた顔つきで、燃える火を見ている。彼らが何を考えているか、それが私には分かるような気がした。」(「山の断想」)
明日から11月。気温がどんどん下がっている。ストーブに火を入れる楽しみが近づいた。今日も夕暮れ、薪を割った。